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明智光秀が京都から東海各地をウロウロしていた頃、東北では内戦が終わろうとしていた

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「麒麟がくる」が21回を最後に中断期間に入ってしまったので、今回からはしばらく特別企画にお付き合いいただきたい。
ドラマで描かれてきた1547年〜1560年までの時期、東海や近畿以外の地域では何が起きていたのか? これを紹介することで、みなさんが戦国時代をより深く楽しむ助けになれればと思う。

そのとき東北では内戦が終わろうとしていた

「麒麟がくる」物語序盤、光秀が京都まで鉄砲の調査に出かけたり、織田信秀の軍勢が美濃を攻めたり、あるいは織田と今川が小豆坂で戦って、それを光秀が偵察に出たりしていた1548年(天文17年)までの時期に、東北地方では長年続いた戦いがようやく終わろうとしていた。
「伊達氏 洞の乱(うつろのらん)」、あるいは「伊達氏 天文の乱」とも呼ばれるこの戦いは、名前の通り伊達氏の内乱であった。ところがこの争いはある一族内部の戦いに収まらず、東北地方に広くまたがる大乱になってしまっていた。

原因は伊達氏の事情にあった。この一族はもともと鎌倉時代以来の名門であり、特に戦国時代になって急成長していた。その立役者となった伊達稙宗(たねむね)は大変な子沢山で、自分の息子や娘を周辺諸大名のところへ嫁入り、あるいは養子として送り込むことで影響力を広げ、勢力を拡大したのだ。
ただ、このような急激な勢力拡大は伊達氏内部に歪みときしみを生じさせもした。息子の晴宗を代表に旧来の伊達家臣団が、外にいい顔をして内部には負担を強いる稙宗に、不信感を持つようになったのだ。1542年(天文11年)、越後守護・上杉定実のところへの養子送り込みの一件を引き金にして、ついに晴宗らが蜂起。稙宗を捕らえ、幽閉してしまう。
しかし稙宗もさるものですぐさま脱出したため、伊達家臣団および親族関係にある周辺勢力が稙宗派・晴宗派に分かれて大いに争った。

長い戦いの中で晴宗派へ移るものが現れるなど勢力差は傾き、ついに1548年(天文17年)、戦いは終わった。稙宗は隠居し、晴宗が伊達の家督を継いだのだから、息子の勝利といってよい。しかし、長年にわたる内紛はせっかく拡大していた伊達氏の勢力を大きく減退させてしまった。会津の蘆名、出羽の最上といった服属させられていった勢力がこの混乱の中で次々と独自に勢力を拡大していったのだ。
もちろん伊達氏も決定的に没落したわけではなく、美濃で斎藤道三が死んだ前年の1555年(弘治元年)には幕府に働きかけて奥州探題(他地域での守護に相当する役職。この時点では形骸化)に就任するなど、影響力はまだまだ持っていた。
それでも、伊達氏が再び躍進するまでには、晴宗の孫、政宗の登場を待たねばならないのである……。

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