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斎藤道三と高政の関係が怪しくなっていた頃、信濃は武田信玄の手に落ちようとしていた

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日本を分割して「中部地方」という時にどこを含めるかを考えるのはちょっと難しい。新潟と北陸三県、長野、山梨、静岡、そして東海三県あたりが概ね「中部地方」であろうか。三重はあんまり入らないかもしれない。

この地域のうち西半分は「麒麟がくる」前半の主要な舞台といってよい。美濃では若き光秀の煩悶や道三・高政親子の相克が、尾張では織田信長という英雄の知られざる側面が、それぞれドラマチックに描かれてきた。
では、東はどうか。現在の山梨にあたる甲斐と、長野にあたる信濃では大きな動きがあった。甲斐の武田晴信ーーのちの武田信玄が長年をかけて信濃に侵攻し、そのほとんどを奪い取ることに成功したのだ。

中部の東側では武田信玄がその勢力を拡大しつつあった

信玄は甲斐の名門、武田氏の生まれである。
この一族は戦国時代初期には内紛状態にあったが、信玄の父・信虎の代に内紛を収め甲斐を統一していた。そして信玄が隣国・信濃への侵攻を開始した、というわけだ。なお、信玄はその前には父と対立して甲斐から追い出すという荒技を行なっている。このような不和は道三と高政の例を挙げるまでもなく、戦国時代にはままあることだ。

「麒麟がくる」の物語が始まった1547年(天文16年)には、すでに信玄の信濃侵攻はかなり進んでいる。諏訪、伊那、佐久、小県と北信地域へ勢力を広げていったのだが、そこに立ちはだかったのが葛尾城(かつらおじょう)の村上義清だ。
信玄はこの義清相手に、1548年(天文17年)の「上田原の戦い」と1550年(天文19年)の砥石城を巡る攻防戦(いわゆる「砥石崩れ」)の二度にわたって手痛い敗北を喫している。「麒麟がくる」では帰蝶が織田信長のもとに輿入れし、また今川軍の攻撃が織田と尾張、さらには美濃までも大いに揺らしていた頃のことだ。

信玄は諦めなかった。1552年(天文21年)までには義清ら北信地域の敵対勢力を追い出すことに成功したのである。一方、南信地域も放っておいたわけではなく、1555年(弘治元年)には木曽氏を倒しておおむね侵攻を完了している。こうなると信玄の存在は信濃の隣国である美濃にとっても大いに脅威になっている。ちょうどこの時期、道三が仏門に入って隠居し、高政が後を継ぐことになったわけだが、その背景にはこのような新たな脅威に対応できるリーダーを求める国人たちの動きもあったはずだ。

しかし、そのような信玄の野心は新たな敵を招くことにもなった。
義清らの要請を受け、越後の上杉謙信が信濃へ兵を出したのである。信玄と謙信は北信の川中島で何度も睨み合い、また兵をぶつけ合うことになった。いわゆる「川中島の戦い」である。
最初の戦いは1552年(天文21年)で、最後は1564年(永禄7年)だから、「麒麟がくる」21話までの段階では決着がついていない。有名な四度目ーー両軍が激しいぶつかり合いをした戦いも1561年(永禄4年)だから、じつはまだだったりする。

「川中島の戦い」そのもので明確な勝者はは決まらなかったが、一連の戦いの中で信玄は北信地域を手放さず、むしろがっちりと支配力を高めた。
こうして甲斐と信濃を手中に収め、周辺地域にさらなる野望を示す信玄の存在は、のちに織田家にとっても、そしてその家臣たる光秀にとっても大いなる脅威となる……。

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