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七尾城 上杉謙信の猛攻に耐えた城

戦国を代表する武将のひとり、上杉謙信には数々の伝説がある。その伝説のひとつが、紹介する七尾城を舞台にした『白米伝説』だ。
七尾城は現在の石川県七尾市にあり、1406年(応永13年)に能登守護になった能登畠山氏の初代当主・畠山満則が築いたとされる。しかしそれには確証がないため、6代義元が築き、7代義総が拡張されたと考えられている。それ以降畠山氏の居所となっていた。

この城を攻略する際に次のような逸話がある。謙信は水源を断ち、城内の者が疲弊するのを待つ作戦を立て、実行した。日が過ぎ、そろそろ降伏するだろうと思って様子を見たが、三の丸あたりに滝を確認できた。
あれほどの水があっては攻めるのは無理だと踵を返したとき、たくさんの鳥が滝に集まっていることに気が付き、滝の正体が流れ落ちる米だと見抜いた。鳥は白米を食べるために群がり、米を使って水が豊富にあると見せかけていたのだった。相手方に水がないと判断した謙信は総攻撃を命じ、水がなく疲弊していた城兵では守り切れず開城の運びとなったというものだ。

この話のように白米を滝に見せた伝説は、全国に多く残されている。真実かどうか定かではない。それでも、七尾城での話はいくつか真実を含んでいる。七尾城の堅牢さ、謙信の機転によって落城した点である。
1576年(天正4年)に将軍・足利義昭の要請によって、上杉謙信は隣国の武田勝頼、北条氏政、本願寺と和を結んだ。その後、織田信長を討伐して京を奪還すべく、足利義昭、本願寺、上杉謙信を中心に反信長包囲網が作られていった。急進的な信長を快く思わない勢力はいくつもあり、これまでにも反信長包囲網は築かれたが失敗に終わっていた。

1577年(天正5年)9月、上杉謙信は上洛の道を確保するため、越中ついで能登へと侵攻していた。12月には能登のほとんどを平定し、最後に七尾城攻略を残すのみとなった。
謙信は城下の天神川原に陣を置き七尾城の攻略を進めたが、堅牢な城は簡単には落城しなかった。そのまま正月を迎え、2月に総攻撃が予定された。しかし、関東で北条氏が、能登で畠山氏の重臣・長綱連が、上杉方を攻撃したため対応に追われることとなった。

一方の七尾城では事態が急変している。伝染病が広まっており、城主の畠山春王丸をはじめ、多くの者が病死してしまった。城主不在の城は、長綱連によって死守されたが、謙信の策略が城を揺るがす。
謙信は以前から親交のあった能登畠山氏の家臣・遊佐続光に密書を送り、領地を与える条件で味方につけた。
続光はクーデターを起こし、長綱連の一族を100人あまり殺したと伝えられている。いかに堅牢である七尾城であっても、内部が崩壊してはひとたまりもなかった。こうして城は落城している。

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