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「麒麟がくる」物語序盤、中国地方は不穏な気配が高まりつつあった

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1547年(天文16年)の中国地方では、しばらく続いた二強体制が水面下でひっそりと崩壊の予兆を見せつつあった。
戦国時代の中国地方は、一度は足利将軍を報じて上洛したこともある周防の名門・大内氏と、出雲守護代から成り上がった尼子氏がにらみ合い、たびたびぶつかりつつ周辺諸勢力を従わせて代理戦争をしたり、という関係にあったのである。

1542年(天文11年)には大内義隆が大軍を率いて尼子氏の本拠地を攻撃したが返り討ちにあってしまい、以後の方針を勢力拡大から文化の振興へ転換した。結果として大内・尼子の対立は起きなくなったが、代わりに大内氏内部の武断派——特にもともと義隆に重用されていた名将・陶晴賢らが大いに不満を募らせることになった。

西国随一の戦国大名・大内義隆に対し、家臣の陶晴賢が謀反を起こす

大内氏内部の対立が爆発したのは1551年(天文20年)のことだ「麒麟がくる」では光秀の結婚や斎藤道三・土岐頼芸の対立などの、今後やってくる大きな事件への「引き」になるエピソードが続いていた頃のことである。
動いたのは晴賢だ。兵を挙げた彼は対立する派閥を一掃し、主君の義隆も殺し、大内氏の実権を掌握してしまった。大内氏に従う国衆たちもほとんどが晴賢の行動に賛同する姿勢を示し、一旦中国地方の情勢は落ち着くかに見えた。

だが、そうはならなかった。
大内氏参加の国衆のひとり、毛利元就が公然と反旗を翻したのである。
元就と晴賢の決戦の舞台となったのは聖地・厳島。晴賢は圧倒的な大軍で挑んだが、元就は狭い厳島に敵を誘い込み、また村上水軍を味方につけて海上戦を有利にし、ついに勝利を掴み取ったのだ。これが1555年(天文24年)、美濃では道三・高政親子の不和が決定的な対立へ近づいていた頃の話である。

以後、元就は大内氏を倒し、返す刀で尼子氏まで攻め滅ぼして、中国地方をほぼ統一してしまう。
結果、畿内を支配してその勢力を周辺まで伸ばすようになった時期の織田軍団と激突することになる。中国方面の織田軍をまとめていたのは光秀のライバル、羽柴秀吉だ。

元就自身は1571年(元亀2年)に亡くなったため、このとき織田と戦うことになるのは元就の孫の輝元、そして彼を補佐する二人の叔父、吉川元春と小早川隆景であった。
彼らによる頑強な抵抗でさすがの織田軍も大いに苦戦したが、それでもゆっくりと支配領域を拡大していく。そして戦いの最終局面に織田信長が援軍としてやってくるところでみなさんご存知のあの悲劇が訪れるわけだ……。

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