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小谷城 浅井三姉妹が父と暮らした城

小谷城は北近江の戦国大名・浅井亮政によって1516年(永正13年)頃、あるいはその数年後に築城されたといわれる。
以後、代々浅井氏が居城とし、亮政から3代にわたって受け継がれてきた。3代目は浅井長政であり、彼には織田信長の妹・お市との間に3人の娘がいた。娘の名前は茶々、初、江で、豊臣氏と徳川氏の覇権争いに大きな関わりを持つという数奇な運命を背負い、落城までの短い時間を家族で過ごした。

そもそも長政とお市の結婚は、戦国ではよくある政略結婚であった。
織田信長と浅井長政は1567年(永禄10年)、あるいは翌年に同盟を結んだとされ、そのときに信長はお市を長政に嫁がせた。ところが、1570年(元亀元年)に信長が越前侵攻を進めると、長政は反旗を翻した。越前の朝倉氏と同盟関係にある長政に連絡なしに侵攻したためという説、浅井氏の家臣に親朝倉氏派が多いという説がある。
信長は長政の裏切りを許さず、浅井氏討伐のために改めて兵を出した。

両者の戦いは6月21日に始まり、信長軍が2万、同盟の徳川家康からの援軍が5千。長政軍が8千、朝倉氏の援軍が1万であった。信長の軍勢は小谷城の支城・横山城を攻めにかかったが、救援に出てきた浅井・朝倉軍が姉川まで進んだため、城攻めをやめて浅井・朝倉軍を迎え撃った。家康の家臣・榊原康政が側面攻撃で朝倉軍を動揺させ、浅井・朝倉軍を敗走させるに至った。

この勝ちに乗じて小谷城攻めを行うのが普通だが、信長はそれをしなかった。
小谷城の堅牢さを知っているからこそ、勢いだけで攻略は難しいと判断。横山城に家臣の木下秀吉を入れて浅井氏の動きを監視させ、兵を引きあげさせた。
理由はそれだけではなく、信長包囲網と呼ばれる反信長連合が作られたことも影響している。そのため浅井氏にだけ兵力を費やすことはできなかったためだ。

それが変化するのが1573年(天正元年)4月。包囲網の有力者だった武田信玄が亡くなり、信長包囲網は瓦解。
8月8日には小谷城の支城・山本山城の阿閉貞征が信長に寝返えると、信長は小谷城に向けて兵を出した。織田軍は支城や城砦を次々落とし、8月13日に救援の朝倉軍は戦意を失って敗走。信長は敗走する朝倉軍を越前まで追いかけ、朝倉氏を滅ぼした。さらに27日からは小谷城への総攻撃を進めた。敗北を悟った長政は28日にお市と3人の娘を信長のもとへ送り、自身はその後自刃。こうして浅井氏は滅亡した。

生き残った三姉妹はその後、長女・茶々が豊臣秀吉の側室となり、三女・江は徳川秀忠に嫁ぎ、豊臣徳川の覇権争いの真っ只中に置かれる。次女・初は小浜城主・京極高次室となり、両者の和議のために奔走している。

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