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土佐の風雲児、長宗我部国親が活躍した時期はちょうど「麒麟がくる」前半と重なる!

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戦国時代初期、四国で最も大きな勢力を誇っていたのは細川氏だった。
しかし、やがて細川の支配下にあった阿波出身の三好長慶が勢力を伸ばす。これを支えたのが松永久秀だ。――このあたりの事情は「麒麟がくる」劇中でも断片的に語られた部分である。
長慶はときの将軍・足利義輝とたびたび戦ったがのちに和睦し、京に落ち着いた義輝を支えることになった。

四国における三好家の領地は阿波から讃岐にかけて広がった。
一方、伊予には河野氏がおり、土佐では名門公家にルーツを持つ一条氏が敬意を払われ……という具合に、細川・三好が強者として立ちつつも群雄割拠・混沌の状況にあったのが戦国時代の四国であった。
そんな中、土佐で頭角を現しつつあったのが国衆の一角、長宗我部氏だ。

土佐の風雲児による復活劇と、土佐の出来人による快進撃

長宗我部氏は土佐の岡豊に城を構えた国衆であったが、長宗我部兼序のときに城を攻められて滅んでいた。
しかし、兼序の子、国親は家臣に助けられて城を脱出し、一条氏のもとで庇護されることになる。そんな彼が長じて岡豊に戻ったのが1546年(天文15年)、まさに「麒麟がくる」の物語が始まる前年のことであった。
一条氏の後ろ盾もあってか、国親はみるみるうちに勢力を拡大し、周辺の国衆を支配下においていく。
彼の野心は一条氏も含む土佐のライバルを跪かせての土佐統一、ひいては四国の統一にあったはずだ。ところが夢半ばの1560年(永禄3年)、国親は急な病に倒れてこの世を去る。遠い東方の桶狭間では今川義元が倒れたのと同じ年の出来事である。

残されたのはまだ若い嫡男の長宗我部元親。幼い頃にはひ弱な印象を与えて「姫若子」などと呼ばれたが、ちょうどこの年に果たした初陣での活躍の素晴らしさから「土佐の出来人」と呼ばれるようになった若武者である。
彼の活躍はめざましく、土佐どころか四国を統一せんという勢いでその支配領域を増やしていく。
やがて彼の活躍に目をつけた織田信長との間で外交交渉を行うことになり、その取次役を任されたのが誰あろう明智光秀であった。
光秀と長宗我部の結びつきは深く、しかしそのことが「本能寺の変」の一因になったという説もあるくらいだが……このあたりは本編でも大きく扱われるだろうから、また機会を設けて紹介したい。

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