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佐賀城 平和に主が変わった城

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佐賀城は村中城や佐賀龍蔵寺城とも呼ばれ、肥前国の戦国大名・龍造寺氏の居城であった。
しかし、江戸時代を前に鍋島氏が実権を掌握。1602年(慶長7年)から1611年(慶長16年)までに村中城を改修して鍋島氏の居城となっている。これはただ単に下剋上と考えることはできない。両者の関係を紹介するために、龍造寺氏の最盛期について記しておきたい。

最盛期は龍造寺隆信によってもたらされる。
彼は龍造寺氏の庶家、水ヶ江龍造寺の出である。元々龍造寺氏は佐賀の豪族であり、彼の曾祖父・家兼が肥前守護・少弐氏の被官となり台頭している。家兼の遺言によって還俗して隆信は庶家水ヶ江龍造寺を継いだ。しばらくして嫡家の当主が嗣子なく死去したため、嫡家・村中龍造寺を継いでいる。

彼は家臣にも恵まれた。彼を支えたひとりが鍋島直茂であった。隆信の母・慶誾尼が直茂の父に嫁いだため、ふたりは義理の兄弟という関係になっている。これは政略結婚で、鍋島氏の力を見抜いた慶誾尼が押しかけて結婚をしたと言われる。
龍造寺氏の快進撃は多くの敵を作った。隆信が倒した少弐氏の被官たち、龍造寺氏の力を脅威に感じる周辺の大名たちである。
その中でも大きな勢力だったのが豊後の大名・大友氏だ。当主の大友宗麟は1554年(天文23年)に将軍・足利義輝から肥前守護に任じられていたため、1565年(永禄8年)に肥前を攻撃するべく重臣に3万近い兵をつけた。交戦したものの、隆信と結んだ毛利元就の助けがあり、隆信は宗麟と和平を結んでいる。

しかし、宗麟は再び兵を出した。8万ほどの兵(4万とする説もあり定かではない)で佐賀城を囲んでいる。
局地的な争いがあり、龍造寺氏が地の利を生かして大友方を撤退させることが多かった。そんな状況に業を煮やした宗麟は、弟の大友親貞(親秀、晴秀とも。宗麟の甥とする説もある)に3万の軍をつけ、肥前に出兵させた。
親貞は今山(佐賀県)に陣を置き、援軍と総攻撃の情報が龍造寺氏にもたらされ、打開策が協議された。
その席で直茂は少数で大軍を負かすには夜襲しかないと提案。渋っていた隆信だったが、実母・慶誾尼からの助言で夜襲を決意。直茂は600人ほどの軍勢を率いて今山を夜襲した。
不意をつかれ大友勢は混乱、親貞は少数で山を越えようとしたが直茂の兵に打ち取られてしまった。こうして龍造寺氏が局地戦を制した。

その後、毛利氏に対応するため宗麟は兵を引き上げた。
隆信の快進撃は続き、肥前、肥後、筑前、筑後国、豊前と壱岐、対馬まで勢力を伸ばして「五州二島の太守」と呼ばれるまでになった。
それだけに彼の死後、龍造寺氏は急速に力をなくし、鍋島氏がそれを支えている。やがて鍋島氏が龍造寺氏に代わって大名となるが、それには慶誾尼の助言も影響しているという。主従の交代は簒奪、成り行きなど色々な見方があるが、直茂の働きをみるとやむを得なかったと言えるかもしれない。

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