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岩村城 女城主が支えた城

岩村城は源頼朝の家臣・加藤左衛門景廉という人物によって1195年(建久6年)に造られたと言われる。
彼は源頼朝の挙兵で軍功をあげ、岩村遠山庄を与えられ、この城を築城した。それを機に遠山氏を名乗り、以後居城としてきた。
岩村城は軍事交通の要衝で、武田信玄、織田信長、徳川家康が争奪戦を繰り広げており、遠山氏は中小豪族に見られるように主を変えながら、家を存続させてきた。

1572年(元亀3年)に当主の遠山景任が嗣子のないまま亡くなると、夫人おつやの方の甥にあたる織田信長の五男(四男とも)・御坊丸が跡を継ぐことになった。
当主が亡くなったばかりの頃、遠山氏が信長についたためだ。しかし御坊丸はその時わずか6歳であり、当主が務まるはずはなく、おつやの方が実質的な城の主となっていた。

一方の武田氏は景任の死を知り、高遠城主・秋山虎繁(信友)に攻撃を命じた。
1572年(元亀3年)の12月に信長に従う遠山氏の諸城を攻撃させ、上村合戦で遠山氏は敗れている。そのため攻撃を緩和する意図で、秋山虎繁の岩村城入城を認め、翌年2月におつやの方との政略結婚がなされた。甥への裏切りと知りつつも、城主としての任を優先、あるいは御坊丸を守ろうとする母性がそのような決断をさせたのかもしれない。

その後、織田氏と武田氏の衝突は何度かあったが、決着はつかなかった。
1573年(元亀4年)に武田信玄が病死。後を継いだ武田勝頼は1575年(天正3年)5月21日に織田信長と徳川家康の連合軍と長篠で対決し、大敗を喫した。
信長は5月27日に岐阜に戻ると、嫡男の信忠に岩村城攻撃を命じた。対する岩村城方は2千余りの兵を率いて、勝頼の支援を期待しながら城を守った。決着はつかず、信忠は簡単には攻め落とせないと判断し、城兵たちが疲労するのを持っていた。

戦いは11月の上旬になっても決着はつかなかったが、ここで大きな動きがあった。
岩村城側は近くの水晶山に陣する織田方を夜襲したが、織田氏の家臣・河尻秀隆らの反撃によって失敗に終わった。さらにこの状況を好機と見た信忠は一斉攻撃を仕掛け、甲信の大将21人、1100人の兵が討ちとられる結果となった。
多くの城兵は自刃し、虎繁は捕えられて11月21日に岐阜に移され、その後長良川で磔にされた。おつやの方も信長によって捕えられ磔にされたと言われている。

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