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金沢城 武士が統治する証となった城

初代の金沢城主は織田信長の家臣・佐久間盛政であった。
一向一揆勢の拠点を奪った功によって、1580年(天正8年)に信長から加賀を任された。信長によって統治される前の加賀は「百姓の持ちたる国」と言われ、武士による統治は100年ぶりのことだった。

加賀に浄土真宗が広まったのは、本願寺8代住持蓮如が加賀の国境に近い、越前吉崎で伝導を行ったためである。
蓮如は元々、京都東山の本願寺にいたのだが、本願寺教団の勢力が大きくなったため危険視した山門延暦寺と抗争している。山門の攻撃開始は1465年(寛正6年)の正月であり、同年3月には迫害されて近江に逃げたという経緯があった。
加賀には1471年(文明3年)ごろにたどり着いたとされ、同年には越前・加賀の国境に金沢御堂が造られている。

しかし、布教はそれほど簡単ではなかった。加賀には同じ親鸞の教えを汲む真宗高田派がすでに広まっていたからだ。
そのため、同じ真宗同士の争いによって仏法を守るための戦いという意味合いが強まり、真宗宗徒たちはそのような認識を抱いていたようである。

それに加え、加賀に「応仁の乱」の影響が伝播したことも一向一揆に大きな影響を与えている。
「応仁の乱」は室町幕府管領家の家督争いから、全国にまで争いが伝播した戦いであり、東軍(細川勝元方)と西軍(山名宗全方)に分かれて争っていた。加賀も東西派閥に分かれており、守護富樫幸千代が西軍であったが、蓮如が東軍を指示したことから、帰依した武士たちも東軍に味方し、幸千代の兄・政親に力を貸した。

真宗門徒たちの力を借りた政親は弟の幸千代を倒して、守護職に返り咲いた。そこで、強力な真宗門徒を統率しようとしたが、そこで反発が起き、1488年(長享2年)に守護家の富樫泰高を擁立して守護大名・富樫政親を攻め滅ぼした。
しかし、大きすぎる力は敵も作り、隣国である越後の長尾氏、越前の朝倉氏を敵に回し、1521年(大永3年)に長尾為景に敗れ一揆勢に動揺が広がった。本願寺の上層部が鎮めようとしたのだが、それにも失敗。本願寺の影響力を保つために作られたのが金沢御堂と呼ばれる坊舎である。この坊舎を中心に人や商売人が集まり、金沢は寺内町として発達した。

金沢御堂は一揆の中心であり、本願寺と対立していた織田信長による一揆の鎮圧が行われた。
1575年(天正3年)8月に3万を越える大軍で越前に出陣して総攻撃。その後、柴田勝家に加賀攻めを任せている。勝家は金沢御堂を陥落させ、一向一揆の指導者を討ちとって首級を信長に送っている。
こうして100年に及んだ民衆による統治は終わった。
その後、金沢城は盛政が統治したが、「賤ヶ岳の戦い」で戦死。1583年(天正11年)に前田利家が入った。江戸の終わりまで前田氏が代々居城としている。

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