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新発田城 上杉謙信に背いた男

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新発田城は1423年(応永30年)に越後の有力国人・新発田氏によって造られ、以後彼らの居城となっている。
戦国時代、この城の主・新発田重家が主家である上杉氏に反旗を翻した。事の始まりは上杉家の家督相続にまでさかのぼる。

上杉家の当主であった謙信は、1578年(天正6年)に病で亡くなった。
一説には脳卒中であったといわれており、意識がはっきりしておらず遺言を残せなかったという。そのため家督争いが起きている。
謙信には3人の養子がいたが、ひとりは別の家を継いでおり、景勝と景虎の両名が争った。
景勝は謙信の死後9日後に謙信のいた春日山城の本丸・実城を占拠。主要な機能を掌握して、金と武器を手中にした。さらに雪で覆われる越中の地の利を生かし、景勝は援軍が身動きのとれない冬に景虎を倒して家督を得た。

この戦いで景勝を味方したひとりに新発田重家がいる。
だが、彼は景勝が家督を相続した後に反旗を翻している。その理由は戦功が認められなかったこと、景勝の家臣・直江兼続が重用されて家臣団の地位が相対的に低くなったなどの不満があったと言われる。
重家は尾張・美濃の織田信長、会津の蘆名盛隆とひそかに結んで後ろ盾を得ていた。両者には越後進出や景勝を排除するという目的があり、利害が一致したのである。

1581年(天正9年)に重家の反乱は一族だけではなく、景虎の遺臣を巻きこんで越後のいたるところで決起した。
重家は水上交通の要衝である新潟に城を築き、阿賀野川、信濃川の物資を支配した。景勝にこれを止めることはできなかった。越中の信長との抗争に力を費やし、監視する兵力しか残されていなかったためだ。

ところが、信長が「本能寺の変」で亡くなったことで状況は変化していく。
景勝と信長の後継者・羽柴秀吉が同盟を結んだのである。背後の憂いがなくなった景勝は1587年(天正15年)の9月に出陣。重家と蘆名氏との分断を図り、重家の義父・小田切盛昭の赤谷城など新発田城を支える城を攻撃していった。
特に赤谷城が担った役割は大きく、船を調達して新発田城に兵糧を運びいれるだけではなく、援軍の派遣も行っていたためだ。

こうして新発田城は兵糧と輸送が絶ち切られ孤立した。
まずは重家の妹婿・五十公野信宗のいる五十公野城を攻め、周囲の障害物を焼き払ってから、1か月の力攻めで落城させた。その翌日に新発田城へ攻め入り、城内の3千人余りのすべて討ちとった。こうして7年に及んだ新発田重家の反乱は終わった。

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