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原城 島原の乱の中心地

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原城といえば、「島原の乱」の舞台として有名だ。この乱は、弾圧されたキリシタンを中心とした一揆である。
もともと島原はキリシタン大名である有馬晴信が治めており、領内でのキリシタン人口が高かった。しかし1614年(慶長19年)に晴信は日向に転封、代わりに松倉重政が入ってくる。彼は幕府の方針通りにキリシタン弾圧を行っている。
重政は有馬氏の居城・日野江城(長崎県南島原市北有馬町)やその支城・原城(同市南有馬町)では統治に不向きと判断し、島原城を建てることにした。当然、費用は領民たちから徴収され、大きな負担となった。

空撮した原城跡[原城]
提供:南島原市企画振興部・世界遺産推進室 | 空撮した原城跡[原城]

1637年(寛永14年)の10月25日、有馬村の農民たちによる代官殺害事件が起きる。それを皮切りに一揆勢は島原城を攻め、天草島に飛び火すると富岡城(熊本県天草郡苓北町)への攻撃も行われた。
しかし、落城には至らず後退。農民たちは島原各地から天草島へ集まり、補修した原城に立て籠もった。さらには重政の倉庫が襲撃され、年貢米や鉄砲などを奪っている。
一揆勢がこれほど戦略的なのは、元武士が一揆に参加しているためである。晴信やかつての領主・小西行長の遺臣たちも一揆に加わっていたため単なる宗教一揆ではなく、不満をためた農民たちの百姓一揆のようでもあり、遺臣一揆の特色も持ち合わせた複雑なものだった。

幕府は重政の家老から11月9日に一揆の連絡を受けとり、三河国深溝藩主・板倉重昌を討使とする鎮圧軍を送り、九州大名には帰国を命じて戦に備えさせた。
12月5日に重昌は島原に到着。そんな彼に、追討使派遣の知らせがもたらされた。自分の功績が減ってしまうことを焦り、追討使が来る前に事態の解決を図った。九州の諸大名を動員して原城を攻めさせたのだが、自軍に大きな被害を出すだけで終わってしまった。そのうえ、その失敗を他藩のせいにするという有様で、翌年の元旦に総攻撃をしたものの、またも失敗に終わり、重昌自身も討死にしている。

追討使である老中・松平信綱は1月4日に到着。本来は戦後処理が主な任務であったが、彼が指揮を取ることとなった。
信綱は九州の諸大名を動員した12万5千あまりの大軍、オランダ船による砲撃により戦意を奪い、時間をかけて城の食糧を削っていった。そして、2月28、29日にかけて総攻撃を行い、城兵のほとんどを討ち、一揆を鎮圧している。
「島原の乱」の後、幕府は松倉勝家を改易処分とした。乱が終わってもキリスト教への弾圧は変わらない。むしろ、一揆参加者の思いとは裏腹に、1639年(寛永16年)にはポルトガル貿易を断絶され鎖国が完成し、1640年(寛永17年)に宗門改役が設置さてキリスト教への弾圧は強まっていった。

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