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初代藩主と藩祖のちがい

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「加賀百万石」で知られる金沢藩(加賀藩)の初代藩主は誰か答えられますか?
前田家は江戸時代の大名としては珍しく、265年間一度も国替えされることなく加賀藩主をつとめた大名家ですが、その初代藩主は前田利長です。利長の父である前田利家は1599年(慶長4年)に死去し、江戸時代を生きてないので加賀藩主とはなっていません。
そのため、加賀藩では利家を「藩祖」としています。

同様に福岡藩も初代藩主は黒田長政ですが、藩祖はその父である黒田孝高(官兵衛)となっています。
官兵衛は1604年(慶長9年)まで生きていますが、豊臣政権下の1589年(天正17年)の時点で隠居して、長政に家督を相続しています。

藩祖を辞書でひくと「藩を創設した人。藩主の先祖。」(大辞林)、「藩主の先祖。また、藩の最初の領主。」(精選版 日本国語大辞典)とあるのですが、前田家や黒田家のように江戸幕府の創設前後まで存命しており、藩主家の地位を確立するために大きな功績を果たした人物の場合は例外的に初代藩主と別の人物が藩祖となるようです。

つづいて彦根藩を見てみましょう。
井伊直政も「関ヶ原の戦い」後に佐和山藩主にはなっていますが、彦根藩が立藩する1615年(元和元年)にはすでに死去しています。当然、彦根藩主になれるはずがないのですが、佐和山藩と彦根藩は藩庁の移転(佐和山城→彦根城)に伴う藩名変更だからか、一般には直政を彦根藩の藩祖とし、かつ初代藩主にも数えるようです。
(直政は1602年(慶長7年)死去なので、厳密には江戸幕府下の佐和山藩主として数えるのも微妙です)

ちなみに井伊家の場合はいったん家督を継いだ長男・直継がのちに別家を立てて、次男・直孝があらためて家督を継ぐというちょっと複雑な話になっていて、そのため彦根城博物館の説明では藩主ではなく「当主」という表現を用いて、直継を歴代に数えないようにしていますが、さらに混乱を招きそうなので詳しくはまたの機会に。

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会津藩の藩祖はなぜ保科正之なのか

このように藩祖や初代藩主というのは(そもそも「藩」の定義があいまいなこともあり)ややこしい話なのですが、次に会津藩祖・保科正之のケースを考えてみます。

会津藩は「関ヶ原の戦い」で敗れた上杉景勝が領有していた陸奥国会津郡周辺にできた藩で、初代藩主は家康の娘婿でもある蒲生秀行です。秀行は蒲生氏郷の嫡男で、氏郷は上杉家の前に会津の領主だったので、返り咲いたわけですね。
なのでふつうに考えれば藩祖は初代藩主である秀行か、その父である氏郷となるはずです。

蒲生家はその後、秀行の長男・忠郷が25歳で急死したため改易となり、加藤嘉明が会津藩主となります。その加藤家も嘉明の子の明成の代で改易となり、そうして1643年(寛永20年)に入封するのが保科正之です。
以後、保科家(=会津松平家)がご存知の通り幕末まで会津藩主をつとめるのですが、歴代藩主で数えると5代目(蒲生秀行―忠郷―加藤嘉明―明成―保科正之)にあたる正之がどうして藩祖として扱われているのかがわかりません。

  • 蒲生家、加藤家が改易されたから?(繰り上げとかあるのか?)
  • 保科正之が将軍・徳川秀忠の子だから特別扱い?
  • 会津藩の歴史の大部分を会津松平家が占めているのでその初代として?

今回、藩のデータベースをつくるにあたり、初代藩主と藩祖がちがうケースがあるということで、入力欄は別にわけたものの、いまいちまだ藩祖のルールがわかっていません。

そこで、攻城団にたくさんのコラムを書いていただいている榎本秋先生に聞いてみました。

そもそも藩の成立から見るのではなく、幕末期に存在していた藩主家が起点

ぼくからは「(藩祖について)加賀藩とか福岡藩はまあわかる。彦根藩は微妙だけどわからなくもない。でも会津藩についてはさっぱりわからない」ということを伝えて、藩祖が決まるルールはあるのかを教えてもらったところ「藩祖は、その藩の幕末期の支配大名家の初代なので会津藩は保科正之でまちがっていません。」とのこと。

たまたま冒頭では加賀藩、福岡藩、彦根藩と江戸時代を通じて大名家の入れ替わりがない藩を例にあげたので会津藩で混乱しましたが、榎本先生によれば「広島藩は(関ヶ原の戦い前は)毛利輝元、(江戸時代では)福島正則が藩主をつとめましたが、藩祖は浅野長政です。」と、あくまでも藩の成立時ではなく、幕末から見ていくべきだと。
たしかにこのルールだと会津藩は保科正之になりますね。

ということは江戸時代の途中で廃藩となった藩には藩祖がいないことになります。
また保科正之は高遠藩主や山形藩主もつとめていますが、高遠藩は(鳥居家改易のあと一時期廃藩になるも)幕末は内藤家、山形藩は水野家が最後の藩主なので、正之は藩祖ではありません。
多くの大名家は何度も移封を繰り返していますが、この場合も幕末に藩主をつとめていた藩だけが対象で、しかもその藩に入封した時点の藩主ではなく、その大名家の初代当主が藩祖となるようです。

大名家の成立自体が分家の話とか、過去に書いた「氏」と「家」の話とかも含めてややこしすぎますねと榎本先生に伝えたら「そもそも藩祖自体が後付け概念で、幕末から明治に流行った藩祖や有名な藩主を祀った神社からきているのです。」と、これも「藩」の定義と同じで江戸時代に使われていたものではなく、しかもこちらは学術的なものというよりは、子孫が先祖を祀ることを目的に生まれてきた概念であると教えていただきました。

なおこのルールだと熊本藩の藩祖は加藤清正じゃなく細川家になるわけですが、熊本藩細川家の初代藩主は細川忠利です。藩祖はその父の忠興? あるいは祖父の幽斎? ネットで「熊本藩 藩祖」で検索してもいずれの名前でも藩祖として紹介されています(神社のサイトもいくつかヒットしました)。
またわからなくなったので榎本先生に聞いたら「熊本藩の場合、三人とも正解で難しいのですが、一般的には幽斎でしょうか。幽斎・忠興連名もありますね。」とやはり断定できない様子。

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ともあれ、初代藩主が言葉のとおり立藩時の最初の藩主を示すのに対して、藩祖というのはもっと曖昧で、でも幕末時の藩主家の先祖の誰かということがわかっただけでもよかったです。
今後少しずつ、データベースのほうも埋めていきたいと思います(廃藩になった藩の藩祖は空欄のままで)。

kojodan.jp

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まだちゃんと読めてないけど、こういう本もありました。 

江戸日本を創った藩祖総覧 (PHP新書)

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  • 作者:武光 誠
  • 発売日: 2005/09/16
  • メディア: 新書
 
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