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人吉城 密書で乗り越えた危機

人吉城は肥後国(現在の熊本県人吉市)にあった城で、1205年(元久2年)、相良氏の初代・相良長頼(ながより)によって構築されたと伝わる。それからは相良氏代々の居城となっている。

14代当主・相良長祇(ながまさ)となったばかりの頃、一族の相良長定(ながさだ)による跡目の簒奪が起きた。
長定は長祇の父で、13代当主・長毎(ながつね)とはいとこ同士の関係に当たる。彼はいつの頃からか相良氏の家督を狙い、隙を見て人吉城から長祇を追い出して自害に追い込み、自らが当主となった。

これに反発したのが長祇の兄弟たちであった。兄の長唯(ながただ)と僧籍にあった瑞賢(ずいけん)が反発、相良家の家臣も長唯に味方し、長定を人吉城から追い出すことに成功した。
ところが、今度は長唯と瑞賢の間で対立し、最終的に長唯が瑞賢を討つこととなり、相続争いは終わりを迎えた。長唯は1545年(天文14年)、義滋(よししげ)と名を改め、新たな当主となった。

問題が起きるのはこの頃である。
相良氏が相続でもめている隙に、日向の戦国大名・北原氏が人吉城を取り囲んだ。城内には兵が少なく、形勢は相良氏に不利だった。
義滋は援軍を求め、皆越の地頭・皆越(みなごえ)氏を頼ろうとするも、道を防がれてしまう。使者を遣わすこともできなかったが、ここでひとりの青年が伝令役に名乗りでた。『球磨郡誌』によれば、それは祐玉寺の僧・樹薫であった。彼は密書を油紙に包んで球磨川を下り、皆越貞當に密書を届けることに成功した。

密書を読んだ貞當はすぐに兵を出し、夜になると兵を率い、100人ほどの兵にそれぞれ松明を持たせて人吉城へと向かった。北原氏に大軍が来たように見せかけ、日向伊東氏の援軍であることを触れ回った。
義滋の策略は見事に成功し、北原氏は軍を引き上げ、夜明けには人っ子ひとりいなくなっていた。こうして義滋は危機を乗り切ったのである。

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