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「光秀と信長―天下布武の道―」参加レポート

今日は本能寺本堂で開催された桐野作人先生による講演会「光秀と信長―天下布武の道―」に参加してきました。

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この講演会も撮影禁止、録音禁止でしたので、ぼくのメモをもとに記憶だよりのレポートとなります。
さすが作家の桐野先生だけあって、配布資料がめちゃくちゃわかりやすくつくられていました。本当ならこれをペタっと貼り付けるのがいちばん正確に伝えられるんですけど、ぼくのつたない要約でご容赦ください。

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ちなみに冒頭部分はまちがってます。読み上げながら清州城が抜けてることに先生ご自身で気づかれて訂正されてました。

光秀と信長―天下布武の道―

今日の講演会で話されたことのポイントは以下の2点です。

  1. 織田信長と京都との関係
  2. 「本能寺の変」の原因としての四国問題と折檻問題

まず前半は織田信長の京での宿所の変遷について「織田信長総合事典」(岡田正人、雄山閣出版)をもとに整理されています。

それが以下の表です。

宿所名 宿泊回数
妙覚寺 18
二条御新造 14
相国寺 5
本能寺 4
明智光秀邸 2
清水寺 1
東寺 1
知恩院 1
不明 3
合計 49
配布資料に記載の表には明智光秀邸の2回が記載されてなかったのですが、同時に掲載された年表にはあったので、合計が49になるようにぼくが追加しました。

信長は足利義昭を奉じて入京してから「本能寺の変」で討たれるまでの15年間において、49回の上洛が記録されています。平均で年3回以上とすごく多いのですが、それは京都に拠点(居城)を築かなかった、信長と京との心理的距離感を表してもいるとのことでした。

ただし城を築こうとしたこともあって、それは義昭の追放後、安土城の築城とほぼ同時期に築かれた二条御新造です。のちに誠仁親王に献上され(正親町天皇の禁裏=上御所に対して)「下御所」と呼ばれたこの屋敷は信長もかなり気に入っていたのか(また将軍同等の地位になった責任感もあってか)わずか2年余りの間に14回も上洛して宿泊しています。

誠仁親王に献上したあとは本能寺を宿所にするのですが、このとき本能寺は敷地も拡張され、また境内には信長の御座所とされる御殿――本能寺の変で信長が自害し、焼け落ちた建物――も造営されています。
本能寺の僧侶も退去させられていたようです。これは「本能寺の変」後に、織田信孝が「戻ってきていいよ」と帰還を認める書状を出していることからわかっています。

また、このリストに登場しない、幻の信長の宿所がふたつあるという話もされていました。
ひとつは1572年(元亀3年)に義昭が信長のために築こうとした、公家の徳大寺公維邸跡の屋敷ですが、これはその翌年に信長と義昭の関係が決裂したために工事途中で破却されました。
もうひとつは吉田神社の裏山で、ここに城を築く計画が明智光秀によって検討されましたが、けっきょくは実現されませんでした。この話は以前テレビの「片岡愛之助の解明!歴史捜査」でも話されてましたね。

いずれにせよ、信長は将軍や天皇に遠慮をしたのか理由は定かではありませんが、京に十分な防御能力を備えた居城を構えませんでした。
二条御新造を手放さなければ、吉田山に築城していれば、おそらく「本能寺の変」は起こらなかったかもしれませんし、その後、天下人となった秀吉が妙顕寺城や聚楽第を築いたのは信長を反面教師としたからだろうとのことでした。

つづいて、「本能寺の変」の原因というか、光秀の動機についての話に移ります。
まず「本能寺の変」が起きる半年前まで、信長と光秀の関係は良好であった、絶大の信頼を得た腹心だったことが史料からは確認できていて、では半年前になにがあったかというと、それは「本能寺の変」が起きる1582年(天正10年)の前年11月、信長が三好康長に対して阿波・讃岐を与えたこと、いわゆる四国問題です。

四国問題を再整理する

2014年(平成26年)に「石谷家(いしがいけ)文書」が発見されてから、光秀と長宗我部家との関係、さらには信長の四国の領有権に対する方針転換によって面子を潰された光秀が謀反を起こすに至ったとする、四国問題説が注目を集めています。

ただし桐野先生によれば、さらにその後の研究によって、この四国問題の見方は変わってきているとのことで、そのあたりを説明していただきました。

ちなみにぼくのこれまでの四国問題の解釈はこんな感じです

  1. 信長は阿波三好氏と敵対しており、そのため敵の敵でもある長宗我部氏との同盟を画策していた
  2. 明智光秀の家臣・斎藤利三の兄(石谷頼辰)が石谷家の養子となっており、その義妹が長宗我部元親の正室、さらに頼辰の娘はが元親嫡男の長宗我部信親の正室という関係を活かして、交渉窓口(取次役)を任された
  3. 信長は元親に四国の支配権を認める(「切り取り次第」として元親が自ら奪った領土は長宗我部氏の領土と認める)
  4. その後、三好氏の同族ですでに信長に降伏していた三好康長を通じて阿波三好氏は信長に降伏する(背景として彼らが支援していた大坂本願寺の降伏、羽柴軍による淡路の制圧、味方の毛利氏も劣勢という状況も影響)
  5. 信長は元親に対して、阿波三好氏との停戦を命じ、奪った阿波の半国を返還するよう求める
  6. 元親はブチ切れ、光秀も取次役としてのメンツを潰される(あるいは斎藤利三が謀反を勧める)

ポイントは「光秀はいつから取次役だったのか」です。
そして最新研究によってこれを読み解くためのふたつの年代が特定されています。

ひとつは信長が元親嫡男の信親に「信」の字を与えたのが1578年(天正6年)であることです。これにより、織田家と長宗我部家は(長宗我部家が従属的ではありつつも)同盟関係として位置づけられ、その際に阿波讃岐両国の切り取り次第が認められました。
従来は天正3年とされていたのが3年ズレたことで、両家の実質的な同盟成立年が変わってきます。

もうひとつは徳島市立徳島城博物館の森脇崇文氏によって特定された1枚の書状です。
この書状は1578年(天正6年)に信長が元親の弟で織田家との交渉窓口を担っていた香宗我部親泰に対して送ったもので、三好康長が副状(添え状)を出しています。
年代特定の経緯が、香宗我部親泰の官途名の変化(安芸守→左近太夫)から時期を絞り込むという、それだけでもおもしろそうな話ですが、ともあれ、天正6年時点では取次役は三好康長だったことがわかりました。
こちらも研究者によって推定年に5年ほどの開きがあったそうなので、時系列での解釈に影響を与える重要な指摘となりました。

つまり当初の取次役は三好康長で、その座を光秀が奪ったと考えられるというのです。
そして当然のように光秀は康長から恨みを買うこととなり、康長は巻き返しを図ったと。

再整理するとこうなります。

  1. 信長は阿波三好氏と敵対しており、そのため敵の敵でもある長宗我部氏との同盟を画策していた
  2. 当初は長宗我部家に対して三好康長が取次役をつとめていた
  3. 明智光秀とその家臣である斎藤利三が長宗我部元親との姻戚関係を強みに取次役の座を奪った
  4. 信長は元親の嫡男に偏諱を与え、四国の支配権を認める
  5. 三好康長は挽回するために阿波三好氏を信長に臣従させるために画策し成功する(近衛前久の書状によれば、この時期、康長かその近い人物が安土城で信長に光秀を讒言していると伝えられる)
  6. 阿波三好氏降伏の手柄を認めた信長が康長に阿波を与えることを約束し、また織田信孝を康長の養子とし、讃岐を与えることを決める
  7. 同時に信長は元親に対して、阿波からの撤退を命じる

元親はブチ切れ、光秀のメンツ丸つぶれ…以降は同じですが、年代が特定されたことによって少し四国問題の見方が変わった気がしました。

ただ三好康長の関わり方が遺恨に基づくものであるかどうかにかかわらず、信長の方針転換がかなり場当たり的というか、強引で非常識であることには変わりありません。この性急ともいえる一連の動きを桐野先生は「親バカ」と表現されていましたが、嫡男で家督を継いだ信忠、次男で名門北畠家を継ぎ国持大名になっていた信雄と比べて、信孝は不遇な状況にあったので、兄たちに見劣りしないよう讃岐を与え、さらにいずれは三好家を継ぐことで阿波も治められるようにしたと考えるのが妥当じゃないだろうかといった話でした。
(ぼくのほうで想像を入れつつ補足してるのでニュアンスが異なってたらすみません)

ちなみに元親はブチ切れたものの、滅亡まで追い込まれた武田家のことなどを考えてか、最終的には条件付きの承諾を返答しています。
ただしこの降伏を告げる5月21日付の書状は信長には届かず、それどころかおそらくは光秀も利三も見ることなく、6月2日の「本能寺の変」の決行におよんだと思われます。

桐野先生の話ではこの一件、つまり四国問題だけで光秀が謀反におよんだとは考えにくく、直接の要因と考えるのは微妙かなとおっしゃっていました。
まあたしかに元親としては理不尽な命令で一生信長を許せないと思いますが、光秀としては当初の目的であった阿波三好氏を降伏させた時点で前提条件が変わってるわけで、理不尽だとは思いつつも殺そうとまでは思わないでしょうね。

それよりも政権内、しかも畿内に近い場所に信孝+康長という政敵が登場したということが光秀にとってプレッシャーになった(=遠因にはなっている)という感じの話でした。

なお四国問題は「三好康長の背後に羽柴秀吉がいて、秀吉・光秀の出世争いに利用された云々……」と説明されることもありますが、今回秀吉は出てきませんでした。
ただのちに羽柴秀次が康長の養子になっているように、両者の関係はかなり親密であったことはたしかです。

折檻問題

配布資料に「いわゆる『折檻』問題」と書かれていて、ぼくはピンと来なかったのですが、この折檻は信長が光秀に対しておこなった暴力、パワハラのことを意味しています。
ただし行為の是非はさておき、光秀側に折檻される理由がなかったかというと、どうやらそうではないようです。

それが「本能寺の変」と同じ年、1582年(天正10年)に起きた、光秀による(じっさいは斎藤利三による)、稲葉家家老・那波(なんば)和泉直治の引き抜き事件です。
引き抜かれた側の稲葉一鉄・貞通父子は信長に訴訟を起こし、信長は直治を稲葉家に返すことと、主導者である利三の死罪を光秀に命じています。

ご存知の方も多いと思いますが、もともと利三は稲葉家の家臣で、一鉄とそりがあわず、けんか別れして明智家に仕えるようになったという経緯があります。
一鉄父子にしてみればとても許せる話ではないでしょう。

この訴訟のことが記載されているのが稲葉家が江戸時代に編纂した『稲葉家譜』とルイス・フロイスの『日本史』です。
『稲葉家譜』には「信長公、光秀が法を背くを怒りて、以てこれを召し、譴責(けんせき)して手を自ら光秀の頭を打つもの二、三に至る、光秀が鬢髪(びんぱつ)少しなる故に常に附髪(つけがみ)を用ゆ、この時これを打ち落とされ、光秀深くこれを啣む(ふくむ=遺恨に思う)、叛逆の原本はここに発起す(後略)」といった感じで記載されています(『稲葉家譜』巻四)。

ようするに、光秀が不義理なことをしたので信長は光秀の頭を殴った、そのときに髪が薄いため付けていた付髪が落ちた、という内容です。
この記述を元に「信長が殴った拍子に光秀のヅラ(付髪)が取れて、恥をかかされた光秀が謀反におよんだ」と歴史バラエティで取り上げられることがありますが、そもそもこの史料は江戸時代になって編纂されたものなので、基本的には当てになりません。
(家譜というのは先祖の功績を「盛って」書かれるので全体的に信憑性は低い)

ただ『稲葉家譜』はこのときの関連資料として、堀久太郎(堀秀政)の書状を写しており、そこには那波直治が明智家から稲葉家に帰参したことが書かれているので、引き抜き事件はあったと考えられます。
(そしてこの書状の日付けは5月27日で「本能寺の変」の4日前)

一方、『日本史』には「これらの催し事の準備について、信長はある密室において明智と語っていたが、元来、逆上しやすく、自らの命令に対して反対(意見)を言われることに堪えられない性質であったので、人人が語るところによれば、彼の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りをこめ、一度か二度、明智を足蹴にしたということである。だが、それは密かになされたことであり、二人の間での出来事だったので、後々まで民衆の噂にのこることはなかった(後略)」とあります(『日本史』5 第56章)。

伝聞調なのはこのときフロイス自身は島原におり、京にも安土にもいなかったからです。この天正10年の部分も「本能寺の変」が起きた10年後くらいに書いています。
冒頭の「これらの催し事」は家康を安土城でもてなしたときのことで、日付けにすると5月15日頃、つまり「本能寺の変」の直前です。

頭を殴った、足蹴にした、と与えた暴力の内容は異なるものの、口裏をあわせることができなかったと思われるふたつの史料に同じようなことが記述されている以上、詳細はともかくなんらかの折檻があったのではないかとおっしゃってました。

もうひとつの史料が『当代記』で、これは徳川方の史料(松平忠明が書いたとされるが不明)ですが、山崎の合戦後のことを記したページに「斎藤内蔵助をば擒(とらえ)、京都へ牽き上せ大路を渡し、六条河原に於て首を刎ね獄門に掛けらる、此の内蔵助は信長勘当の者なりしを、近年明智隠して抱え置く」と書かれています。
つまり斎藤利三は信長の名によって(当初は死罪だったが周囲のとりなしで死罪は免れ)追放されたにもかかわらず、光秀はひそかにかくまっていた、というのです。

利三は光秀にとって貴重な存在だったので、信長の命令を無視したということなのでしょうが、信長を殺しちゃえば命令を聞く必要もなくなるよなって考えた可能性もありますね。

桐野先生は講演のまとめとして、多くの研究者は折檻問題(利三死罪の件も含んだ意味だと思います)を軽視しているけれど、これだけ多くの史料に出てきている以上、無視はできないし、今後さらに研究が進めばいろいろわかっていくかもしれない、というようなことをおっしゃってました。
そして実質的にナンバー2であった織田政権内での光秀の地位が揺らいでいることに危機感を抱いたことが「本能寺の変」の動機につながったのではないかと。

もちろん史料の評価や解釈は歴史家によってさまざまですし、桐野先生のお話が100%正しいかどうかはぼくにはわかりませんが、とにかく動機だけがよくわからない「本能寺の変」において、斎藤利三を守ろうとした、あるいはこの一件での信長の裁定が少なくとも光秀にとっては殺意を抱くほど理不尽なものだと感じられた、というのはけっこう説得力があるかもと思いました。
もっとも、説得力があるから真実とはかぎらないんですけどね。

約80分の濃密な講演で、めちゃくちゃ楽しかったです。四国問題と折檻問題はもうちょっと勉強したいと思いました。

さっそくこの本を読んでみます!

明智光秀と斎藤利三 (宝島社新書)

明智光秀と斎藤利三 (宝島社新書)

  • 作者:桐野 作人
  • 発売日: 2020/02/22
  • メディア: 新書
 

余談

余談ですが、信長の京での宿所については河内将芳先生の「信長と京都」もオススメです。
こちらは在京期間まで記載されているので、信長がどのくらい京に滞在したかがわかっておもしろいです。 

宿所の変遷からみる 信長と京都

宿所の変遷からみる 信長と京都

  • 作者:将芳, 河内
  • 発売日: 2018/11/07
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
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