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【戦国軍師入門】4.「戦略」と「戦術」の違い

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榎本秋の戦国軍師入門

この時代の花形ともいえる合戦についていよいよ触れていこう。
だが、その前にとある大事な概念について紹介したい。戦略と戦術という言葉は、戦国ものに限らず戦争に関係する話であれば必ずといっていいほど出てくるものだが、その正確な意味についてだ。

とても単純に言ってしまうと、戦略とは戦争をするための前準備を整え、また実際に戦争をする時により良い状況で敵と戦えるように大局的な視点で軍を動かすことだ。一方、戦術とは実際に戦場で敵と対峙した時に、いかに部隊を動かして自軍を勝利に導くか、ということだ。このさらに上の概念として政治と経済があるが、それは本書ではあまり触れない部分だ。

大名は政治・経済・戦略・戦術の各面で指示を出し、支配下の豪族たちも自分の領地の中では政治や経済について頭を悩ませ、合戦に駆り出された時には戦略や戦術について進言し、また自分の部隊を率いる武将として、これをどう動かすかという戦術的な問題について考える必要がある。

戦国時代には無線も何もないから、実際に合戦が始まってしまうと、大名の指示はなかなか各部隊を率いる武将たちの元に届かない。だから、それぞれの部隊がどう動くかについてはある程度自己判断する必要が出てくる。
これは武将よりさらに下の、物頭と呼ばれる小隊長たちにとっても同じことだ。このタイミングで敵を押せば戦況が変わる! という勝機は、本陣で待機している大名にはしばしば見えにくいものだが、実際に前線で戦っている物頭がそうした勝機をしっかり摑んで自分の部隊を戦術的に動かすことができれば、その働きは見事に勝利につながるものなのだ。

合戦の構造と「どうすれば勝てるのか?」

戦国時代における実際の合戦の構造について見ていこう。これまで説明してきたように、戦国時代の勢力や軍団は、近代の軍隊とは大きく違ったあり方をしている。農村を背景とした豪族を基本単位としている大名の勢力は、それぞれのあいだにきっちりと国境線があるわけではなく、複雑に入り組んでいる。
そのため、互いの勢力範囲が混じり合う場所では常に小競り合いが起きていた。そして、総力をあげて兵を整える時は当然のことながら、相手方にもその動きが伝わるので、両方が軍勢をそろえての会戦となるわけだ。

この時代の合戦ではどちらかが仝滅するまで戦うということは滅多になかった。有力な武将が討ち取られたり劣勢になったりして士気が下がると、その段階で軍勢が潰走を始めてしまうからだ。
よほど訓練された部隊や武将の薫陶が行き届いている部隊は別だったが、だいたいはきっかけがあるとすぐに崩壊してしまった。そのため、いかに相手の陣を崩すかというのがこの時代の合戦では必要なことだった。

敗色が濃厚になると、次は安全に引き上げないといけない。場合によっては、本戦より退却戦の方が多くの死傷者を出したくらい、引き上げは危険な作業だった。逆に言えば、戦力が同じくらいであっても、上手く相手を崩して潰走させてしまえば、こちらには被害が少なく、相手に大きな痛手を与えることができたわけだ。

この時、味方部隊が安全に退却できるように合戦場に残って援護する部隊を殿軍(でんぐん、しんがり)と言う。たいていの場合、この殿軍は全滅してしまう。また、そもそもこの状況になると兵士は三々五々勝手に逃げ出してしまっているので、軍勢の形を保つこと自体が難しいということも多々あった。

こうして総力戦に敗北すると、兵士の損失や有力な武将が戦死するなどの大きな被害を受け、さらに大名の評判が落ちて豪族たちが離反してしまうという致命的なダメージが発生する。特に、有能な当主のカリスマによってまとまっているような家だと、その当主が死ぬことで雪崩をうって崩壊することも珍しくない。
東海一の勢力を誇った今川氏も桶狭間の戦いで当主の義元が討ち死にすると、ほぼ取り込んでいたはずの三河の松平元康(後の徳川家康)が独立を宣言し、これが今川氏の滅亡へとつながっていくわけだ。同じく、精強な騎馬軍団を率いた武田勝頼も、長篠の合戦で父・信玄以来の有力な家臣を多数失い、その後は豪族たちがどんどん離反してあっけなく滅んでしまった。

大名を支えた豪族たちは必ずしも強固な忠誠心を持ってはいなかった。だから、御家騒動や総力戦での敗北といった、勢力が大きく弱体化するような出来事があると、事件そのものの被害以上に、味方の離反という手痛い出来事がその大名たちを待っていた。
そのため、なんとしても味方の潰走を防がねばならず、またなんとかして敵を潰走させねばならなかったのが、戦国時代における合戦のあり方だったのだ。

どうやったら敵に勝つ……つまり、相手を潰走させることができるのだろうか。まずは、味方の戦力を高めていくことから考えていこう。
合戦での兵士の強さというのは日本全国で平等であったわけではなく、風土に恵まれた過ごしやすい地域の兵士は弱く、厳しい自然環境の地域の兵士は強いという傾向があったとされている。
実際に、織田信長の軍勢は他国と比べると弱かった。そんな織田軍が数々の戦いで勝利を重ねていったのは当然ながら理由があった。それは、合戦を行う前に十分な準備を行っていたことだ。

では、信長が行った準備とはなんだったのだろうか? それはズバリ、相手の数倍の兵力を揃えたことと、補給をきちんとしたことだ。
たとえ各兵士の能力が低くても、その分を数で補えばよいわけだ。数の暴力という言い方もあるが、個人の能力に頼るのではなく、数で敵を圧倒するのはとても有効な手段なのだ。時にはその数に怯えて敵が勝手に降伏してくれることさえもあるのだから。

そして、もうひとつが補給だ。基本中の基本である食料や水の手配とともに、戦国時代の新兵器鉄砲を十分に使うのに、補給は必須である。このように事前に勝てる要素を限りなく多く集めておくことが勝利を得るにはとても大切だった。
織田信長は桶狭間の奇襲戦での勝利により天下にその名を知らしめたが、彼自身はその戦いを博打だと理解していた。そのため、それ以後の戦いでは基本的に敵より多い兵士を用意し、鉄砲を十分に活用することが彼の基本方針となった。

 

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