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【戦国軍師入門】5.戦わずして勝つ、軍師の手腕

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しかし、味方の戦力を強化するだけでは必ずしも勝てるかどうかはわからない。それが日常的に行われていた小競り合いではなく、家の存亡を賭けた一大決戦であるならば尚更、敵だって本腰を入れてくるから、戦いの行方はわからなくなる。
不利な状況からの逆転は物語としてみるのならば大変に美しい。策謀の数々を巡らせた末の「見かけだけの不利」からの勝利であるならば、それは結局有利な状況を作って勝ったということであり、実に偉大である。しかし、やはり大事なのは事前にたやすく勝てる状況を作っておくことであり、「勝ち易きに勝つ」ことなのだ。

どうすればそのような状況を作れるのだろうか。兵力の増加や装備の拡充など自前の戦力を強化する方法にはどうしても限界がある。一番オーソドックスでかつ手っ取り早い手法は、相手の有力な豪族を味方につけることだ。
これも既に述べたとおり、戦国時代の武家勢力というものはいくつもの小勢力がまとまって作られるものだった。だから、敵方の豪族を味方に引っ張り込むことができれば、その人物の勢力ごと手に入れることができたわけだ。

この時に活躍したのが軍師であった、と私は考える。彼らは知的教養も高く、交渉術にも長け、また人脈も広く持っていた。そのため、軍使(軍の使者と書いて軍使だ)として有力豪族のもとに赴いて彼らを説得するのにうってつけだったのだが、それだけでなくもうひとつ有利な点があった。それは信用だ。

軍師の地位にあるということは、必然的にそれだけの知名度がある、周辺でも知られた人物であるということを意味する。そうした人物がわざわざ引き抜きにやって来たということが、引き抜かれる側の豪族にとって大事なのだ。
というのも、裏切りを持ちかける方に理由があったように、その誘いに乗る方にも当然理由がある。彼らは今までの地位や身分・領地の保障を求めているし、あわよくば今まで以上の待遇を望んでもいる。

けれど、そうした理由につけ込まれて騙されることもしばしばあったのが、戦国時代の裏切り工作というものだった。だから、話を持ちかけてきた相手を信じてよいのかという点について、豪族たちは細心の注意を払って見極めようとする。

こうした時に、相手を信用できるか否かの目安として大きかったのが、直接の交渉相手になるわけだ。相手側の大名の信頼を得ている軍師直々の誘いともなれば、ある程度信用してもかまわない、と豪族たちは判断したのだ。現代風に言うならば、ヒラの人間が持ちかけてくる話よりも、重役クラスの人間の話の方が信用されやすい、といったところだろうか。

それだけではない。他地方などに勢力を伸ばそうと軍を動かす際に、現地に詳しい人間を軍師として取り立て、交渉に当たらせることもしばしばあったようだ。
以前から面識があって人となりを知っている人物から持ちかけられるのと、まったく知らないか噂での評判しか知らないような人物に持ちかけられるのでは、信用するかしないかのハードルが全く違うのは当然のことだ。

例えば、黒田官兵衛は、元々は中国地方は播磨(現在の兵庫県南西部)の国の小大名の部下だった。それが、秀吉が信長の命で中国地方に進出した際に、現地を知っている軍師として協力するようになったのだ。

乱世に求められた能力は、武の道+戦略、戦術、政城、築城……

今までは戦国時代をシステム的な部分から見てきたが、今度はこの時代における人材の役割を見ていきたいと思う。それは「軍師」のあり方にも深い関係がある。

戦国という時代はその名が表すように戦乱の時代であり、基本的には武が尊ばれた。戦場における勇猛さ、部隊を率いる統率力、戦機をうかがう判断力といった、武将としての能力がなにより求められたのだ。
逆に当時は文官の仕事というものがあまりなく、内政的な仕事への評価はとても小さかったのが実情だ。豊臣秀吉の元で文官として栄達した石田三成が、その領地のほとんどを島左近をはじめとする武将に与えたのも、戦地においては自らが信用されないということがわかっていたからだろう。だからこそ、優秀な武将を高禄で迎え入れたのだ。

石田三成がこうして出世できたのは、既に戦乱が収まりかけていた時代の人間だったからだ。実際、彼は秀吉に逆らう諸大名がいなくなったあとに、その参謀的存在として大きな力を振るうようになった。しかし、戦乱真っ只中の頃は、三成のように文官として優秀だった人物がその能力を生かせず、歴史の中に埋もれていくこともさぞ多かっただろう。

当時は武将として武の道に優秀であることがなにより求められた。その上で、戦略、戦術的な能力があったり、攻城、築城の才能があるとさらに評価された。そういった特殊な技術を持った武将が軍師として重く扱われ、合戦において活躍したのだ。

そのように、武に長けると同時に戦略・戦術的な能力を併せ持ち、仕える大名以上の戦略・戦術能力をもってその時その時にあったアドバイスをして、時には大名の代わりに軍団を率いたり、合戦の采配を担当することもある。
例えば上杉景勝に仕えた直江兼続や、伊達政宗の教育者でもある片倉景綱のような人物こそが名軍師と呼ばれるに相応しい。

ただ、こうした軍師はどうしても目立つし、絶大な権力を持たされることにもなる。そのために、大名からのゆるぎない信頼と本人の自制心がないと、大名によって抹殺されたり、逆にその大名を滅ぼして自分が取ってかわるといった、ある意味で不幸な結末に辿り着く例も少なくない。

仕える大名が進言を聞き入れてくれず、失意の中で死んだ者がいる。大名の暴挙を止められず、衰退の道を辿る主家を最後まで守ろうとした者もいる。一方、ライバルとの対立から大名との折り合いが悪くなり、ついにはライバルも大名も殺して自分が主家を乗っ取ってしまった者だっている。

こうした不幸な軍師たちの中で、特にドラマチックな道を辿ったのが「秀吉の両兵衛」のひとり、黒田官兵衛だ。卓越した戦略眼を持つ彼は、それ故にこそ秀吉から疎まれ、冷遇されていた。しかし、彼はそう簡単に終わる男ではない。天下分け目の「関ヶ原の戦い」の時に中央から遥かに遠い九州の地にいた官兵衛は、最後の賭けに出ようとしていたのだ……。彼の生涯とその賭けの結果については、のちほど詳しく紹介する。

逆に、彼らが仕えた大名にはどんな能力が求められたのか。
元来が神輿的立場とはいえ、戦国大名にも能力が必要で、能力がないとその地位から陥落してしまうと述べたが、逆に能力が高く実績も上げると、その勢力の中で、神輿ではなく大きな権力を誇ることができるようになる。

本当は戦国大名というものはすべからくこういう状態になってないといけないのだが、残念ながらすべてがそこまでの力を得ることができたわけではない。といって、強権を発動できた大名が全員恵まれていたわけでもない。

例えば、武田信玄の配下には武田二十四将という有力な武将たちがいたが、裏を返せば彼らは有力な豪族であり、信玄が隙を見せればいつ彼らが言うことを聞かなくなるかわからない、という状況でもあった。
「奥州の独眼竜」こと伊達政宗にしても、若くして家を継いだために、古くからの重臣や一族の重鎮たちの干渉はかなりのものだった。しかし、信玄も政宗も結果を出すことでそうした人々を抑え、絶対的な権力を獲得していったのだ。

つまり、戦国大名に求められたのは、そうした結果を出すための統治能力、判断力と戦略・戦術能力だったわけだ。例えば、織田信長や毛利元就、北条早雲といった人々はそのすべてをかねそなえていた。

しかし、大名がそのすべてを高い水準で持っていなくてもよい。統治能力と判断力を高い水準で持ち、ある程度の戦略能力を持てば、それ以外の高度な戦略能力や戦術能力というのは、信用できる部下に任せてもよかったからだ。
当然ながら、その意見を理解するための最低限の能力と判断力は必要だが、それを補うスペシャリストこそが軍師だったのだ。

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