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明智光秀と足利義昭――あるいは選ばなかった主君

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斎藤道三・織田信長と並んで明智光秀に大きな影響を与えたと思われる歴史上の人物。それが足利義昭である。のちの「本能寺の変」の黒幕のひとりという説も根強い義昭は、光秀にとってある時期の主君でもあった。
義昭は足利義輝の弟で、将軍(義晴)の子として誕生した。幼いうちから興福寺に預けられて僧侶・覚慶となった。しかし兄が三好三人衆らにより殺害されると興福寺で監禁状態に追い込まれた中で、兄の後を継いで将軍になる決意をする。細川藤孝らに救出された彼は近江、若狭と各地を転々とし、越前へ逃れた。この過程で還俗し、「義昭(当初は義秋)と名乗っている。

越前へ来たのは朝倉義景を頼るためだったが、実際の武力行動には移りそうもなかった。そこで美濃を手に入れたばかりの信長と手を組み、上洛を目指すことになる。このときに仲介役を果たしたとされるのが明智光秀であるわけだ。
信長に擁立された義昭は上洛を果たし、三好三人衆を追い落としてついに将軍に就任する。この時期の義昭は信長と親密の関係にあったが、やがて方針・権益が対立し、険悪な間柄になってしまう。この対立が激化し、周辺勢力も巻き込んで、信長は京・岐阜を包囲されつつ戦うことになるわけだ。

じつはこの時期、光秀は「両属」状態にあった。つまり、義昭の家臣として幕臣でもありながら、同時に織田家臣でもあるということだ。このような両属関係は戦国時代にはままあることだった(二つの勢力の中間に位置する村などが両方の勢力に半分ずつ年貢を納める、など)が、両者が険悪になるといつまでも両属で有り続けるのは難しい。どちらも信用できる味方が欲しいからはっきりしろ、となるわけだ。結局、光秀は織田を選んだ。時期としてはだいたい1571年(元亀2年)の中頃であるようだ

包囲網に囲まれた信長は一時劣勢に追い込まれるも反撃に転じ、逆に追い詰められた義昭はついに挙兵するも敗北。降伏して京から追放されることになる。後任の将軍は誕生しなかったので、これをもって室町幕府滅亡、室町時代(戦国時代)の終わりとするのが一般的だ。
畿内を追われた義昭は紀伊へ、ついで備後へ逃れ、毛利家の庇護を受けた。この時住んだ場所から、追放後の義昭の政権を「鞆幕府」と呼ぶ。まだ収入源はあり、将軍権威をもって外交戦を繰り広げていたことから、幕府はまだ滅亡していなかったと見ることもできよう。

中国地方で対信長の執念を燃やし続けた義昭だが、己の手で信長を倒すことはできなかった。「本能寺の変」で光秀が信長を倒したからだ。
信長死後においても諸大名と外交を行ったが、毛利輝元への影響力は失っており、具体的な成果を残すことはできなかったようだ。一方、信長の実質的な後継者となっていた秀吉から「養子にしてほしい」と頼まれて拒否するなど、将軍としての意地は最後まで持っていたようだ。
のちに京へ帰還。出家し、また将軍の位を明確に降りて、61歳まで生きて亡くなった。

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