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【戦国軍師入門】九頭竜川大会戦――30倍の勢力差を逆転

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少数で多数に勝つ、というのはドラマチックな戦いの見本のようなもので、古くは源平の合戦における源義経の頃から、そうした戦いが伝説となって語りつがれている。もちろん、実際に数の差をくつがえすのは大変に困難なことなのだが、戦国時代には30倍の戦力差をひっくり返した戦いがあった。
それが越前(現在の福井県の一部)の名門・朝倉家を支えた名軍師・朝倉教景が指揮した、「九頭竜川大会戦」と呼ばれる戦いだった。1506年(永正3年)のできごとである。

この頃、越前に隣接する加賀(現在の石川県南部)の国は一向宗(浄土真宗の本願寺派)によって支配されていた。1488年(長享2年)の加賀一向一揆(一向宗の信者が起こした反乱のこと)で守護の富樫氏を追い出した本願寺は加賀を百姓の国とし、さらに他の国にも勢力を広げようと虎視眈々と狙っていたのだ。

こうした事情から、越前で一揆が起きると加賀、越中(現在の富山県)、能登(現在の石川県北部)の一向宗門徒たちが続々と越前の国に流れ込んで合流する。ここにかつて朝倉家に敗れた越前甲斐氏の残党まで参加し、軍勢は30万を超える規模にまで膨れあがったという。

これに対して朝倉軍の総大将となったのが教景だった。彼の元に集まったのは1万程度。九頭竜川を挟んで対峙した両軍は兵力数に相当の差がある。しかし、敵は所詮鳥合の衆だ。突く隙は十分にあった。

それでも味方に30倍する敵の兵力に教景はかなり悩むが、使者が朝倉家当主・貞景の「渡河して攻撃せよ」という言葉を伝えたのを機に、ついに決意する。川を一気に渡って敵に攻め込んだのだ。教景の軍と対峙していた一揆勢はその勢いと教景の士気によって散々に打ち破られ、すぐに敗走を始める。さらにこの部隊の恐慌は川の上流などの他の場所で朝倉軍と戦っていた部隊にも一気に伝わり、大軍はあっという間に敗走してしまった。

パニック状態になって飛び込んだ一揆勢の死体で九頭竜川が埋め尽くされたという話や、30万の大軍のうち、加賀に逃げのびたものは10万に満たなかったという話が伝わっているくらい、この戦いの結果は壮絶だった。
以後も朝倉家と一向宗は長く戦い続ける。彼らが手を組むのは教景が死んだ後のことであり、共通の敵・織田信長が登場した時のことだった。

大軍といえども、一度崩れだしてしまえばしばしばあっけなく崩壊するものだ。しかし、頭ではそうとわかっていても、少数での攻撃を決断するのは大変に困難なことであり、朝倉教景も散々に攻撃を悩んだことからそれがわかる。それでも攻撃を決断できたからこそ教景は名軍師と讚えられたのだ。

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