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明智光秀と足利義栄ーーあるいは「ライバル未満の存在」であっても

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足利義栄(よしひで)。俺は戦国時代にはちょっと詳しいよ……という人でも、この名前には聞き覚えがないかもしれない。「足利」というから足利将軍家の誰かであろうと推測はついても、「将軍だよ」と言われればビックリするのではないか。
しかし、彼は確かにごく短い時間ながら室町将軍を務めたのである。その名は14代将軍として、13代・足利義輝と15代・足利義昭の間に記される。

義栄の父は足利義維(よしつな)といって、11代将軍・足利義澄の子、12代将軍・足利義晴の弟にあたる(兄の説も)。この義晴が義輝・義昭兄弟の父であるわけだから、つまり彼らと義栄は従兄弟の関係にあたるわけだ。
義維は「阿波公方」の通称からわかる通り、四国・阿波を拠点としていた。どうしてそうなったかというと、将軍の座を追われて阿波へ逃れた10代将軍・足利義稙(義材)の猶子になったからだ。つまり、義澄ー義晴ー義輝と義稙ー義維ー義栄の対立という関係で理解すればわかりやすいのではないか。もちろん、その背景には細川氏・三好氏に代表されるような有力武家の思惑があって、足利将軍家の人々は神輿として担がれたのである。

義維は阿波の地から度々将軍の座を狙った。『麒麟が来る』劇中でも描かれた義輝が京都にいなかった時期などは好機だったはずだが、上洛はできていない。真の好機は義栄の代になって来た。義輝が三好三人衆によって殺されたのだ。
将軍を殺してしまった三人衆は、すぐさま新しい神輿を必要とした。そこで阿波から義栄を呼び寄せることにしたのである。ただ、すぐさま京都へ移すことはできなかったようで、義栄はしばらく淡路・あるいは摂津で待機している。そこから使者を送って将軍就任を打診し、時間はかかったもののどうにか14代将軍になることができた。1568年(永禄11年)2月のことである。しかし、義栄と家臣団は京都には入らず、摂津で幕府運営を始めた。

なぜか。それはおそらく、この時期の京都では三好三人衆・松永久秀が激しく争っていて、安定した幕府を開くことができそうになかったからではないか。そうこうしているうちにライバルが東からやってくる。足利義昭を奉じた織田信長が大軍を率いて上洛したのである。
これを黙って見ている義栄ではない。三好三人衆らを率いて対立する姿勢を見せた……が、結局対決は実現しなかった。病に倒れ、そのまま亡くなったからだ。いつ死んだかは定かではなく、将軍の座を義昭に奪い取られた形なのか、それとも死んでスムーズに受け継がれたのかはよく分からない。もし彼が生きていたら三人衆の抵抗ももう少し効果のあるものになったかもしれないが、それもまた今となってはわからない話である。

将軍在位1年足らずということで、影が薄いのも仕方がないのが義栄という人である。
もちろん明智光秀との関係性など特別なものがあろうはずがない。彼が奉じた義昭のライバル未満の存在……そんなところだろう。そんな彼にも人生があり、理想があり、目的があったはずだ(例えば「麒麟が来る」で義昭が将軍になって人々を救う道を探しているように)。歴史学の研究ではおそらく明らかにならないようなそんなことを、ドラマを見ながら想像してみるのも歴史の楽しみの一つであろう。
なお、阿波公方(館の在地から平島公方とも)の血筋は、義栄の死で絶えたわけではなかった。義栄の弟の義助が家督を継承したのである。江戸時代に阿波を支配した蜂須賀家の支配下に入ったが、江戸時代も中期になると京へ移り住んだ、という。

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