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【江戸時代のお家騒動】大久保長安事件ーー幕府中枢の権力闘争が原因?

【時期】1613年(慶長18年)
【舞台】幕府
【主要人物】大久保長安、徳川家康、大久保忠隣、本多正信 

徳川政権の金庫番・大久保長安の“陰謀”が死後発覚

1613年(慶長18)、徳川家康の側近を務めた大久保長安という男が、中風(脳梗塞・脳出血)のため69歳で亡くなった。
長安は黎明期の江戸幕府において、財政や交通、産業などの分野でその敏腕を発揮し、幕府の創立に多大な功績を残した人物である。特に産業面において、石見や佐渡、伊豆の金銀山を開発して歴史的な増産に成功しており、その有能ぶりに同じ幕閣からも脅威的な存在として恐れられていた。

その長安の死後になって、彼に関する後ろ暗い事実が浮かび上がる。長安は金銀5000貫を超える財産を隠し持っており、さらには幕府転覆の陰謀を企てていたというのだ。
長安が幕府の転覆をはかった、その理由とは一体なんだったのか。それを明らかにするには、まず彼が家康に仕えるようになる以前の動きについて見ておかなくてはならない。

長安は猿楽師・大蔵大夫の次男として1545年(天文14年)に生まれた。そして大蔵大夫が甲斐の武田信玄に猿楽衆として仕えるようになると、やがて土屋直村という武田氏の家老が長安とその兄である新之丞を取り立て、土屋姓を授けたといわれている。
こうして甲州武士となった長安だったが、1582年(天正10年)に主家である武田氏は織田信長によって滅ぼされてしまった。家康が長安を家臣に取り立てたのは、この武田氏滅亡の後のことである。このような経緯から、長安は徳川氏譜代の重臣であつた大久保忠隣の庇護を受けることになり、以後大久保姓を名乗ったのだった。

さて、ここで「陰謀の理由」に話が戻る。長安はこうして家康に仕えたわけだが、彼は自らを武士の身分に取り立てた武田氏に深い恩義を感じていた。そのため武田氏の子孫と密かに連絡を取りながら、幕府を転覆して武田氏の再興をはかっていたというのだ。

長安の後ろ盾であった老中・大久保忠隣も連座

陰謀が発覚すると、家康は隠し財産をすべて没収。そして長安の子ら7人を連座で死罪としたのである。
さらにそれだけでは終わらず、彼と親戚関係にあった幕府役職者や大名にも処罰が下った。長男・藤十郎の舅である石川康長は流罪となり、三男・青山権之助の養父である成重は閉居を命じられた。

そして道連れを食らう形となったのが、長安を庇護していた忠隣だ。「長安の陰謀に関連して、忠隣が謀反を企てている」という訴状が、馬場八左衛門という武士によって提出されたのである。家康は長安と親しい忠隣が陰謀に関わっていたとしても不思議ではないとして、この訴えをのんだ。
これにより忠隣は、1614年(慶長19年)にキリシタン追放のため京都に出向いている間に、前触れもなく改易に処せられたのだった。これを知った忠隣が「謀反は事実無根である」と弁解したものの受け入れられず、結局改易の命令に従うことになった。

大久保忠隣 VS 本多正信の激烈な派閥争い

以上が大久保長安事件の一連の流れだが、この事件には見ておかなければならない「裏側」が存在する。
それが、2人の老中の対立だ。1人はこの事件に関連して処罰を受けた大久保忠隣、そしてもう1人は吏僚の筆頭である本多正信だった。

2人の対立は1600年(慶長5年)、「関ヶ原の戦い」に始まる。のちに江戸幕府2代将軍となる徳川秀忠が上田城攻めにあたった時、これに従っていた忠隣の家来が抜け駆けのような動きをしたことに対し、正信が処罰を加えたのである。
この出来事を始めとして、以後も2人は家康の後継者などを巡ってことごとく対立。ともに幕府創設の中枢を担いながらも、派閥争いを繰り広げていたのだ。

そして1612年(慶長17年)に起きたある事件により、忠隣を中心とした、いわゆる「大久保党」の勢力が一層増すことになった。それが、岡本大八事件である。
ことの始まりは、それから少し遡った1609年(慶長14年)。肥前のキリシタン大名・有馬晴信によって派遣された朱印船の乗組員が、マカオで騒乱を起こして現地で殺害された。その翌年、ポルトガル船のノッサ=セニョーラ=ダ=グラッサ号(一般的にはマードレ=デ=デウス号として知られている)が長崎に来航。マカオで起きた乗組員殺害の報復を命じられた晴信は4日間にわたって戦いを繰り広げ、ノッサ=セニョーラ=ダ=グラッサ号を撃沈させることに成功したのだった。

そんな晴信に賄賂の話を持ちかけてきたのが、本多正信の子・正純に仕える岡本大八という男だ。彼は貿易の状況などを報告するため、たびたび長崎へと視察に赴いていた。大八が晴信と同じくキリシタンだったこともあってか、視察に赴く中で両者は親しくなっていったのである。
ところが大八には、晴信を騙して大金を横領しようという企みがあった。大八はノッサ=セニョーラ=ダ=グラッサ号撃沈の後、晴信に「恩賞として有馬氏の旧領である藤津・杵島・彼杵の3郡を、現領主の鍋島氏から返還してもらえるよう、正純にかけあってみる」という風に話を持ちかけ、その斡旋と引き換えに賄賂を受け取ったのだ。

しかしその後、大八から晴信には何の音沙汰もなかった。不審に思った晴信が直接正純に話をしたのだが、当然正純にとっては有馬氏の旧領返還など初耳である。こうして、賄賂のことが発覚したという次第だ。
この事件の裁断には、大久保長安があたっている。長安は本多父子に対する抵抗もあってか、大八と晴信の両者に厳しい処罰を下した。大八は処刑となり、晴信も改易と流刑を言い渡されたものの甲斐へと流された1月後に死罪を言い渡されて自害している。

今も残る大久保長安事件の謎

事件の張本人が正純の家臣だったために、本多父子は連座も覚悟しなければならなかった。家康から信頼を受けていたためにそれはなんとか免れることができたものの、この事件で正信・正純父子の立場が悪くなったことは間違いないだろう。そして反対に、忠隣や長安といった「大久保党」が幕府の中で最大の勢力を築くのである。

特に忠隣は人脈が広く、城内だけでなく城外からも厚い信頼を寄せられていた。秀忠との付き合いも長いために影響力も強く、その気になれば鎌倉時代の執権のように幕府を私物化することさえ可能な位置にいたと考えられる。そのため正信は彼を危険視し、幕府を守るためにも忠隣を引きずり降ろそうと、忠隣失脚を常に狙っていたのではないかと思われる。

そんな中、正信にとって好機となったのが、忠隣と親しくしていた長安の死だった。事件の発端となった陰謀の発覚だが、実は隠し財産のことも含めて、未だに明らかになっていない部分が多いのである。つまり、正信が長安の行状をどのように言ったところで、すでにこの世にいない長安が弁解することはできないのだ。
かくして長安に関係する者たちの処罰が行われると、正信はその矛先を忠隣へと向けさせた。八左衛門の訴状を取り上げた正信は、家康をそそのかして忠隣の改易へとことを運んだのである。
こうして見るとわかるように、大久保長安事件とは実は最初から最後まで「幕府内の派閥争いが絡んだ騒動だった」のだ。

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