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【江戸時代のお家騒動】宇都宮釣天井事件ーー秀忠派が長安事件の復讐を果たす?

【時期】1622年(元和8年)
【舞台】宇都宮藩
【藩主】本多正純
【主要人物】本多正純、徳川秀忠、加納殿

大御所家康の懐刀・本多正純の絶大な権力

本多正純は、父の正信とともに幕政の中心を担っていた人物である。幼少期より徳川家に仕え、徳川家康が秀忠に将軍職を譲り大御所として駿府に移った時も、家康に伴われて駿府城に入っている。正信や大久保忠隣といった重臣でも秀忠を補佐するため江戸に残されたことを考えれば、家康が正純を駿府に伴い傍に置いたことは、彼にいかに大きな信頼を寄せていたかをうかがうことができる。

この頃の徳川家は、駿府の大御所・家康と江戸の将軍・秀忠という二元政治の体制をとっていた。正純はこの駿府側の政権において、家康に次ぐ立場にあったといえる。
それゆえ1616年(元和2年)に家康が亡くなり正純が江戸城に戻ってくると、当然ながら秀忠の重臣たちとの確執が生まれることになった。江戸側の政権において力を持っていた父の正信がいればまた違っていただろうが、彼は家康の後を追うようにして同年に亡くなっていたのである。

江戸での政治は重臣たちの合議制によって執り行われていたが、駿府での政治は正純が側近の筆頭として独裁的に執り行っていた。しかも秀忠に将軍職を譲ったとはいえ、大名統制の実権は家康が握っていたようなものだから、駿府において彼に次ぐ権力者であった正純の存在は、江戸の重臣たちにとって一種の脅威ですらあったのだ。
そのため、1619年(元和5年)に正純が宇都宮藩15万5千石を加増され、宇都宮城主となったことは、幕府の重臣たちにとって脅威が遠ざかる結果になったともいえる。

正純への突然の改易命令の伏線は、秀忠の日光参拝にあり

宇都宮藩主となった正純は、居城の改修と城下町の区画の整理に乗り出した。
宇都宮城の面積はそれまでの2倍以上に広げられ、堀と土塁が築造されている。また城の拡張にあわせて城下町も整備され、日光街道の設置や奥州街道の付け替えなどが行われたうえ、寺院などが城の周辺から郊外へ移動となった。

正純はこれらの工事を、1620年(元和6年)から急ピッチで行った。なぜ急ぐ必要があったのか。その理由は、1622年(元和8年)の家康の7回忌に、日光東照社で行われる祭儀に間に合わせるためだったと思われる。
秀忠はこの七回忌祭儀に出るため、4月13日に江戸を出発した。当初の予定では、途中で正純の字都宮城に立ち寄りここで宿泊し、17日に日光東照社で祭儀を行い、帰りは再び宇都宮城で宿泊する予定になっていた。

ところが日光社参までは予定通りだったものの、復路での宇都宮城宿泊は急速取りやめとなり、秀忠は宇都宮藩に再び立ち寄ることなく江戸へと戻ることになる。理由は、秀忠の正室・お江与が病気との知らせが入ったからということだった。
ただしそれだけにしては妙な動きが見られた。秀忠に付き添い日光に向かっていた老中の井上正就が、宿泊の取りやめを正純に伝えるため宇都宮城を訪れ、そのまま城の検分を行ったのである。

実は秀忠一行が日光に到着した時、秀忠の姉の加納殿から書状が送られてきていた。その内容は明確ではないが、「宇都宮城のつくりに不審な点がある」「たくさんの武器を持ち込んでいる」といったような正純の謀反をほのめかすようなものだったと思われる。
加納殿の孫は宇都宮藩の前藩主・奥平忠昌であったため、彼女は後から転封してきた正純に対して良い感情を抱いていなかった。実際、加納殿は「奥平家は数々の合戦で武勲を立てたというのに、大した武功もない正純がその地に入り、奥平家が転封させられるとはどういうことだ」と秀忠に不満を述べている。彼女が秀忠に書状を送ったのは、そういった心境があってのことだった。

この出来事から4ヶ月ほどが経過した頃、出羽国山形藩の最上義俊が改易となり、正純は幕府から山形城接収の命を受けた。正純は最上家の抵抗も考慮し、兵を揃えて山形へと赴いた。そして山形城の接収を無事に終え、幕府からの次の命を待つため山形にとどまっていたところ、江戸からやつてきた使者らが突然、正純に領地の没収と出羽国由利5万5千石への転封を伝えたのである。この時、使者は正純に十一ヶ条から成る詰問状を突きつけた。しかし正純がこれらすべてに明快な回答を返したので、使者は新たに三ヶ条を追加する。内容は、武器の買い入れや修築の際の工事について、といったものだった。

すると今度はそれに答えられなかったため、正純の転封が決定した。ところが正純は「領地を召し上げられるようなことはしていない」として転封を拒否し、由利5万5千石もいらないと返したのである。使者たちがこれを秀忠に伝えたところ彼は激怒し、今度は正純を改易にすると言い渡したのだった。こうして正純は、出羽国横手へ配流となった。そのまま15年の時を横手で過ごし、1637年(寛永14年)に73歳で没している。

「宇都宮釣天井事件」に隠された秀忠派の正純追い落とし

以上が正純改易の事のあらましだが、この事件が俗に「宇都宮釣天井事件」と呼ばれるのはなぜなのか。それは作者不詳の『大久保武蔵鐙』をはじめ、新井白石の『藩翰譜』、幕府が編纂した『徳川実紀』などでこの事件が脚色されて伝わったためだ。
その内容は、「正純が秀忠の泊まる予定だった宇都宮城の御殿に釣天井を仕掛け、将軍を暗殺しようとした」というものである。この釣天井の上に大きな石を載せ、秀忠が入浴しているときに釣り縄を切って天井を落とし、圧殺しようとしていた、というのである。

もちろん、城内の取り調べでそのような仕掛けがなかったことは確認されている。要するにつくり話なのだが、錦絵や芝居などによって広まったこの正純改易事件は、「宇都宮釣天井事件」として知られることになったのだ。
釣天井の事実がなかったことに加え、正純が家康死後に置かれていた立場を考えれば、この事件についてもやはり真相は幕府内の権力抗争ということになるだろう。秀忠派の重臣たちと加納殿、彼らに同調した秀忠によって正純を政権から追い出すことは決定事項のようなものになっていたはずだ。そして秀忠の日光社参を機会に、それが実現した――と考えるのが自然に思われる。
意図的かそうでないのか、この「力を強めつつあった幕臣が、軍事行動を要請されて城を空けている間に取り潰される」という構図は、大久保忠隣の改易の時と非常によく似ている。歴史の皮肉というべきか……あるいは、秀忠が復讐のためにあえて同じ手法をとったのかもしれない。

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