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細川藤孝と麝香のなれそめについて調べたら足利将軍が出てきた

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大河ドラマ「麒麟がくる」では「6歳になった息子がいる」とセリフの中で登場済みの細川忠興ですが、ということは細川藤孝は結婚しているわけですね。
忠興のお母さん、藤孝の奥さんである沼田麝香(じゃこう)とはどんな人だったのか、またふたりのなれそめについておもしろいエピソードがあったので紹介します。

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正室・沼田麝香との結婚は生まれる前から決まっていた?

細川藤孝(1534年〜1610年)は1562年(永禄5年)頃に、若狭国熊川城主・沼田光兼(みつかね)の娘、麝香と結婚します。翌年には嫡男・細川忠興が誕生。
ちょうど藤孝が足利義輝の御供衆(奉公衆の指導者格)だった頃で、義輝が三好長慶と和睦して京に戻っていた時期になります(義輝は永禄8年5月19日死去)。ちなみに藤孝の「藤」の字は義輝が「義藤」と名乗っていた時代に偏諱を受けています。

そこで気になるのが、なぜ京のエリートである藤孝が若狭の城主の娘と結婚したかということですが、麝香の父・光兼も藤孝と同じく室町幕府に仕えた奉公衆だったようです。
ふたりの結婚について書かれた資料を大河ドラマ「麒麟がくる」推進協議会から訳文とあわせていただいたのでそのまま引用します。

沼田家記
上野介光兼将軍家近習之時分依台命光兼息女幽斎様ニ御嫁娶御座候其訳ハ幽斎様御妊胎之時分将軍家より上野介江御内意御頼之趣有之奉補育候由依之以後右御嫁娶之台命御座候由云々
御嫁娶之年月知不申候

 

沼田家記(訳文)
上野介光兼が将軍家のおそばに仕えていた時、その命令により光兼の娘(麝香)が幽斎様と結婚した理由は、幽斎様が御腹にいらっしゃるときに、将軍家(足利義晴)から上野介に対し依頼があり、(幽斎様を)補育(後見)して差し上げた。そのことから後にこの結婚の命令があったということである。
結婚の日はわからない。

義輝の父、足利義晴は1550年(天文19年)に病死していますが、「沼田家記」によれば光兼はまだ生まれてもいない藤孝を後見するよう義晴に頼まれていたそうです。
藤孝の父は諸説あるようですが、定説の三淵晴員(はるかず)とするなら、彼は1570年(永禄13年)死去なので、まだ生きています。父親が生きているのに、他家に後見を依頼するものなのかはよくわからないのですが(しかも藤孝は細川家の養子に出されている)、おそらく義晴は幕臣である沼田氏と三淵氏の関係強化を図ることを狙い、あとを継いだ義輝もその意向を尊重してふたりを結婚させたのではないかと思われます。

藤孝が養子に出された細川家については、晴員の兄である細川元常の説と、晴員とともに12代将軍・足利義晴に仕えた細川晴広の説があるそうで、後者が有力視されているようです。

余談ですが、現在はほぼ否定されているものの母・智慶院がもともと足利義晴の側室だったため、藤孝には実父が義晴の説もあって、もしその説が正しければ義晴が自分の子どもの将来を沼田光兼に託したというちょっとドラマチックな展開になりますね(おそらく単なる家臣同士の関係強化だと思います)。

定説では細川藤孝もこの時代には珍しく側室を持たなかったそうで、忠興をはじめ麝香との間に10人の子どもをもうけています。
(というか黒田官兵衛、明智光秀といい、側室を持たないとされる武将はけっこういるので、そう珍しくもないのかも)

主君の命により家臣の子ども同士が結婚することも当時は珍しくない話で、じっさい藤孝の嫡男である忠興は明智光秀の娘・たま(のちのガラシャ)と結婚するわけですが、この間を取り持ったのも両者の主君である織田信長でした。

冒頭の肖像画は藤孝と麝香のものですが、一般に没後描かれた肖像画(=遺像 ゆいぞう)は左向きで、存命中に描いた肖像画(=寿像 じゅぞう)は右向きとされるのですが、麝香の肖像画は遺像であるにもかかわらず、藤孝の肖像画と対面させるために右向きに描いたそうです。死後も愛し合ってますね。
女性が片膝を立てた姿は「麒麟がくる」でもたびたび出てきますが、この肖像画の麝香も右膝を立て、手をあわせて亡き夫の菩提を弔う姿が描かれています。

沼田氏とは

麝香の実家である沼田氏は、沼田城を居城とした上野沼田氏の庶流で、若狭国熊川に所領があったことからこの地に土着した一族のようです。
当時の若狭は鯖街道が通るなど、京の北の物流窓口になっていて栄えていたようです。

沼田氏は戦国時代、若狭守護・武田氏の家臣でした。この若狭武田氏は足利将軍家と関わりが深く、当時の当主・武田義統(よしむね)は足利義晴の娘(足利義輝・義昭の妹)を正室に迎えるなど姻戚関係にもありました。
義輝暗殺後に奈良から脱出した義秋(義昭)は越前に向かう前に妹婿の義統を頼って若狭へ移っています。しかし息子との家督争いや重臣の謀反などがあり、とても上洛できる状況ではなかったことから、朝倉氏を頼ったという経緯です。

おそらくこの若狭滞在の時期には藤孝も奥さんの実家に顔を出していた可能性があります。あるいは沼田氏がいて安全を確保できたことも若狭武田氏のもとに身を寄せる理由のひとつだったのかもしれません。

また津軽為信の軍師として活躍したと伝わる沼田祐光(すけみつ、沼田面松斎とも)は麝香の兄弟とされるのですが、詳細についてはよくわかっていません。

もうひとつ、近年発見され、明智光秀と思われる人物の名前が出ていると話題になった「針薬方(しんやくほう)」の原本を書いた沼田勘解由左衛門も沼田氏にかかわる人物です。
(光秀と推定される)「明智十兵衛尉」なる者から医薬に関することを近江高嶋田中城で口伝された沼田勘解由左衛門ですが、この人についても沼田光兼の四男(麝香の兄)という説や、麝香の兄である沼田光長の子(麝香の甥)という説などがありよくわからないのですが、足利義昭に仕官していたようです。

なお発見された「針薬方」はそれを同じく幕臣の米田貞能(こめださだかず)が写したもので、貞能はのちに細川家の家老になっているように米田氏は細川家の家臣としてつづいていきます。

その後の沼田氏ですが、藤孝が織田信長の家臣となって与えられた勝龍寺城には「沼田丸」という曲輪があります。
ここには沼田氏に与えた屋敷があったそうで、沼田氏も代々細川家に仕えました。

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奥さんの実家を家臣にするというのはそう珍しくないのかもしれませんが、沼田氏と三淵氏を結びつけるために画策された結婚なのに、その両家ではなく細川氏が大名として残っていくというのも興味深いですね。
ちなみに三淵氏のほうは藤孝の兄・藤英が信長によって嫡男とともに明智光秀の坂本城で自害させられますが、次男は助命されて藤孝に仕えて三淵氏も残っています。
(このエピソードも「麒麟がくる」で描かれそう)

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最後に、麝香の実家である熊川城もいま城址が整備されていて、御城印も販売中なのでぜひ訪問してみてください。

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