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明智光秀と今井宗久ーーあるいは畿内の実力者たち

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今井宗久は戦国時代末期の豪商であり、またこの時期を代表する茶人・文化人のひとりでもあった。
もとは近江の土豪に生まれたが、若くして堺へ出て商人になる道を選んだ。この頃の堺は流通・商業の要地として発展しており、周辺から独立した自治都市になっていた。その活気が彼を引き付けたのであろうか。やがて納屋衆(倉庫の貸し付け業)として頭角を表す一方で、茶人としてもその名を知られていくことになる。

堺は商人たちがトップに立つ自治都市であったが、むしろ自治都市であるからこそ、堺の商人たちは政治とは無関係ではいられなかった。誰に味方するか、誰に敵対するかを慎重に選ばなければ、堺のようなちっぽけな都市はすぐさま潰されかねないからだ。
だから宗久も有力な戦国武将と親しく付き合った。元々は松永久秀との関係が深かったようだが、織田信長が上洛してくるや、すぐさまこの新しい天下人との間に太いパイプを持つようになった。この時、宗久は秘蔵の茶器である「松島の茶壺・紹鴎茄子」を差し出したという。これらは宗久の茶の湯の師匠であるとともに義理の父でもある武野紹鴎から遺産として譲り受けたものだった。

こうして宗久は織田家の茶頭、つまり茶の湯を取り仕切る人物のひとりになったのだが、信長は必ずしも茶人としての宗久を評価したわけではなかったようだ。
信長が目をつけたのは宗久が発言力を持つ堺という都市の経済力であり、また宗久自身の財力と実務能力であったと考えられる。じっさい宗久は茶頭になる前に、信長からの矢銭(軍資金)2万貫の要求を受けて憤る堺の商人たちを説得し、矢銭を出させている。また、新兵器である火薬・鉄砲を大量に生産することにも成功しており、交渉人・商人としての腕は非凡であったと言ってよいだろう。

光秀とは茶の湯、また織田家の経済政策に関係して結びつきがあったようだ。
光秀は畿内を中心に活躍する武将であったから、宗久をはじめとする堺の商人たちとの縁が深くなるのは当たり前と言える。このような事情から「『本能寺の変』の黒幕は堺商人たちだったのではないか」と考えた人もいるようだが、少なくとも宗久はその容疑者から外した方がいいかもしれない。
なぜなら、「本能寺の変」後の宗久は著しくその存在感を失っていくからだ。実質的に信長の跡を継いだ豊臣秀吉も彼を茶道として登用はしたものの、重用したのは千利休や津田宗及であって、宗久は疎んじられたのである。それでも秀吉が催した北野大茶会にはその姿が見られるが、以後その活躍は目立たない。

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