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【江戸時代のお家騒動】有馬氏の出世 騒動を起こさずに主家を吸収合併

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【時期】1595年(文禄4年)
【舞台】播磨国
【藩主】有馬則頼
【主要人物】有馬則頼、有馬豊氏

主君の改易によって外様ながら大出世を果たす

鍋島騒動は、鍋島家が家臣でありながら主家の実権を握っていたことに端を発した騒動だった。しかし、「騒動を起こさずに主家を吸収した」パターンもある。

播磨の有馬氏がそうだ。有馬氏は播磨の名門・赤松氏の支流である。
播磨守護である赤松則祐の子・義祐が摂津国有馬郡に配されたことで、有馬氏を称するようになったのだ。
八代目・則頼の時には一時所領を失うなど危うい時もあったが、その後の織田信長の中国攻めにおいて、これを担当した羽柴秀吉の補佐にあたった。この時、則頼が中国路に詳しかったことが秀吉の助けとなり、その功績として播磨淡河に3200石、後からさらに1万5千石の加増を受けている。

有馬氏が異例の出世を遂げるのは、則頼の子・豊氏の時だ。
豊氏は姉婿にあたる遠江横須賀藩主・渡瀬繁詮に仕えていたのだが、1595年(文禄4年)に秀吉の養子・秀次が謀反を企てたとして処刑される事件があり、それに連座して繁詮も改易となった上、切腹に処せられた。このため、豊氏が繁詮の所領を引き継ぐことになったのである。

その後も豊氏は、秀吉の死後に台頭した徳川家康から厚い信頼を受け、「関ヶ原の戦い」では父の則頼とともに東軍に属して戦った。戦功として則頼は摂津有馬郡の2万石を与えられており、ここに有馬氏の旧領を取り戻したのである。一方、豊氏も3万石の加増を受け、丹波福知山の城主となった。

さらに則頼の死後に彼の領地も相続したことで、豊氏は8万石の大名に。さらに1620年(元和6年)には改易となった筑後田中氏の代わりとして移封され、21万石を有する大大名となった。
外様でありながらこのような異例の出世を遂げた有馬氏。もちろん、秀吉や家康から信頼を受けるだけの実力があったことも事実だろうが、幸運に恵まれていたことも否定できない。

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