攻城団ブログ

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五三の桐、五七の桐は知ってるけど、九七の桐とか五五の桐とか知ってた?

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「桐紋」(きりもん)は現在、日本国政府の紋章としても使われていますが、もともとは皇室専用の家紋だったそうです。
しかし豊臣秀吉の家紋としてよく知られるように、じっさいには室町時代以降、多くの武将・大名家が桐紋の使用を許されました。そのため皇室が「菊紋」ばかりを使うようになったというのはそれはそれでおもしろい話ですが、今日は桐紋についてのお話です。

花の数で呼び名が変わる桐紋

桐紋というと、五三の桐、五七の桐が有名です。

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これは上図のとおり、花の数が3-5-3になっているのを「五三の桐(五三桐)」、5-7-5になっているのを「五七の桐」と呼んでいます。
(なぜ三五の桐や七五の桐と呼ばないのかは不明)

秀吉はもともと「沢瀉(おもだか)」の家紋を使っていたといわれていますが、織田信長から桐紋の使用を許されたため、以後は桐紋を使用しています。おそらく武家出身ではない秀吉は自らの家紋を持っていなかったので沢瀉紋も由緒があっての使用ではないと思うのですが、だからこそ桐紋を積極的に使用し、さらには独自にアレンジした「太閤桐」というデザインまでつくっています。

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太閤桐

また秀吉は関白就任後に「五七の桐」を使用するようになったといわれており、このことから信長から下賜されたのは「五三の桐」であることがわかります。
そして京都では大徳寺の唐門のように「五七の桐」の金具や彫刻があるものは聚楽第の遺構の可能性が高い目印にもなっています。

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大徳寺唐門(国宝)

有名な信長の肖像画にも桐紋が描かれています。
Wikipediaには「五七の桐花紋のついた裃を着た織田信長像」とありますが、五三の桐だと思います。もっとも信長の桐紋も足利将軍家(おそらく足利義昭)から下賜されたもので、それを秀吉に又貸しならぬ又下賜したわけですね。

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ちなみに戦国大名は家臣に家紋の使用を許可するといったことをわりとよくやっていて、信長もほかに「永楽銭(永楽通宝)」をマンガ「センゴク」でおなじみの仙石秀久に下賜したり、九曜紋を細川忠興に下賜したりしています。
その九曜紋を伊達政宗が忠興に使わせてくれと頼んだとか、家紋の授受や使用許諾の話だけでいろいろエピソードがありますが、それは別の機会に。

また秀吉が「太閤桐」という独自の桐紋を考案した背景に、桐紋を諸大名にばらまいてしまったためブランド価値が暴落したからという説もあり、家紋というものはその大名家の象徴であると同時に、必ずしも先祖代々ひとつのものを使い続けているわけではありませんでした。
たとえば政宗はメインとなる定紋の「仙台笹」以外にも「九曜」や「五七の桐」など7つの替紋を使っていたそうです。

トーハクの桃山展で「九七の桐」があった

このように桐紋=五三の桐・五七の桐くらいのイメージだったわけですが、東京国立博物館で開催中の特別展「桃山―天下人の100年」の展示物の中に「九七の桐」の釘隠しがありました。 

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細見美術館所蔵の「七宝九七桐紋釘隠(しっぽうくしちきりもんくぎかくし)」で、説明には聚楽第の遺構の可能性があるとのこと。

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図録より

七宝五七桐紋釘隠

二個
銅、鋳造、七宝、鍛金
各縦八・二 横八・四
江戸時代 十七世紀
京都·細見美術館

 桐紋をかたどった銅製の釘隠。一種は花の数が中九・脇各七の九七桐、他方は中七・脇各五の五七桐紋である。葉は葉脈を除いた地に魚々子(ななこ)を打ち、全体に鍍金(めっき)している。花と葉脈の部分には銅素地を彫りくぼめ青緑色の七宝釉を指す象嵌(ぞうがん)七宝が用いられている。細見美術館には、同種の九七桐紋を手培の蓋に転用した作品があり、その釘隠は豊臣秀吉が築造せしめた聚楽第の遺品と伝えている。
 東京国立博物館蔵の「聚楽第七宝釘隠図」一巻(明治時代 十九世紀)は、円形の五三桐紋の釘隠の図で 「七宝製釘隠」「方二寸九分」「聚楽亭舊地ヨリ出ヅ」と注記する。図では円の外縁と桐紋は黄色、内郭の地は薄緑色に塗られており、金銅と緑七宝を示しているとみられる。
 本桐紋釘隠は、形と七宝の施される部位は異なるが、金銅と緑七宝という組み合わせが、聚楽第七宝釘隠図にも通じる。ただし桐の花の数が五三から増え、形態も緊密にまとまっているなど、より時代の進んだ点も認められる。

図録の説明に「江戸時代 十七世紀」とあるので、聚楽第の遺構じゃないと断言しているのですが、これが聚楽第で使われた釘隠しかどうかの前に、そもそも「九七の桐」をはじめて見たので、少し調べてみました。
すると意外な、だけど納得の人物が出てきたのです。

「九七の桐」は足利義昭が使用していた

なんと足利義昭が亡命した鞆の浦(広島県福山市)にあった居館の瓦に「九七の桐」が入っていたそうです。たしかに福山市鞆の浦歴史民俗資料館のブログ記事には出土した「九七の桐」の瓦の写真が載っています。
さらに調べるとやはり鞆に流れてきた義昭が滞在した同市内の常国寺にも「九七の桐」が彫られた板があるそうです。また警固を担当した渡辺氏に下賜した胴肩衣(どうかたぎぬ)にも「九七の桐」が染め込まれているとか。

福山市鞆の浦歴史民俗資料館|展示と催し物 » Blog Archive » 足利義昭居城の瓦

足利義昭胴肩衣(あしかがよしあきどうかたぎぬ) 附肩衣之由来書 - 福山市ホームページ

少なくとも鞆幕府での義昭は「九七の桐」を使用していたことがわかります。
福山市鞆の浦歴史民俗資料館に「義昭はいつから使っているのか、あるいは義輝などその前から足利将軍家で使われていたのか」を問い合わせたところ、「義昭は鞆に来る前から使っていると思うが、いつからかについてはよくわからない」と回答をいただきました。

余談ですが、鞆の浦歴史民俗資料館では現在、特別展「鞆幕府 将軍足利義昭」を開催中です。

news.kojodan.jp

さらに五五の桐も!?

この話を攻城団で開催している「日本史の知識をアップデートするための勉強会」でしたところ、参加してくれた団員から清洲城で発掘された鬼瓦に金箔の桐紋があり、そこには5-5-5の花がある「五五の桐」が彫られているという情報が。
「九七の桐」につづいて「五五の桐」まで? とこちらも調べてみると、蓮華王院三十三間堂のところにある太閤塀に五五の桐の瓦があるという情報を発見しました。

せっかく京都に住んでいることだしと、見に行ったところたしかに「五五の桐」です。

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方広寺大仏殿は1595年(文禄4年)9月に完成しているので、おそらくこの頃に使われたのだと思います。
秀吉の関白就任は1585年(天正13年)、聚楽第完成は1587年(天正15年)で、1598年(慶長3年)に亡くなっているので、「五五の桐」は亡くなる直前に使われていたのかな。

花の部分が簡素化されたデザインになっているのは瓦に使用したからというのもあるでしょうが、太閤桐のデザインにも近いのでなにか関係があるのかもしれません。

現時点でこれ以上の情報はわかりませんでしたが、桐紋にこんなにバリエーションがあることに驚きました。
ぼくが知らないだけで、ほかにも秀吉にゆかりのあるお城や大名の遺品などに見たことのない桐紋がきっとあるのだと思います。もし情報をお持ちの方がいらっしゃったら教えていただけるとうれしいです。

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