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【お城の基礎講座】69. 城下町(じょうかまち)

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お城ができると武士が集まり、そこには商人や職人などが集まり、そして街が出来上がります。
それが城下町(じょうかまち)です。
そして城下町には城を守るという役割もありました。
お城には城下町は欠かせず、城下町は城があるからできたのです。
そして、現代の町も江戸時代の城下町があったからこそできているのです。
今回はその城下町について学んでいきましょう。

庭園は城下町の始まり

城下町(じょうかまち)は室町時代末期には作られたと考えられます。
それは平山城や平城の普及に伴って城の周囲に町が作られて発展しました。
戦国時代、城攻めの時にはまず初めに城下町が焼き払われました。
町があると城を攻めるのに邪魔になるからです。
また町に住む人々は城を攻める側にとっては敵となり得るからです。

城下町は現在の都市の元

近世城郭になると城の外側には必ず城下町が作られました。
そして現代の都市の多くはこの城下町をもとにして発展してきています。
そのため今私たちが住んでる街を考える時にお城と城下町というのはある意味ではルーツとも言えます。
例えば侍町の跡や町人地の跡というような町割り(まちわり)が受け継がれているということです。

町割り(まちわり)

城の本丸や二の丸には城主の住む御殿を建てました。
その外側の三の丸には家老などの身分の高い家臣の屋敷が作られました。
身分の高い家臣ほど城の中心部の近くに屋敷を構えました。
そして長屋門を構えた広い屋敷が持てたのです。
そのような屋敷を持てないクラスの家臣は、土塀や生垣を巡らした屋敷を外側に建て、さらにそれよりも身分の低い家臣は城の内外に建てられた一戸建ての住宅を貸し与えられていました。
さらにそれよりも身分の低い足軽などは侍町の一番外側に建てられた長屋、つまり共同住宅で住んでいました。
武士だけでは町は成り立ちません。
武士たちが暮らしていくために商人や職人といった町人たちを城下に集めました。
町人地に建てられた家は2階建てが一般的で、家の正面を道に向かわせて隣の家との隙間がないように作られました。
間口が狭く奥行きが長いうなぎの寝床などがその例です。
このような作り方は、敵が侵入してきた時の視界を遮るという効果があります。
また道を折り曲げたり丁字路(ていじろ)を作ったりすると、見通しがきかなくなるだけでなく自分がどこにいるのか分からなくなってしまうため、敵の侵入を阻むのには好都合です。
こうして城下町は城を守る要塞のような役割があったのです。
町の外側には町人地が続きましたが、さらにその外側には足軽の長屋や上級家臣たちの別宅、つまり下屋敷(しもやしき)が作られました。
現在の地名でも上屋敷(かみやしき)や下屋敷(しもやしき)などが残っていますが、それは江戸時代の町割りの名残です。
さらに城下町は総構え(そうがまえ)と言う堀や塀などで町全体を囲う防御をするところもありました。
そして城下町の出入り口は城の虎口と同じように、食い違い虎口(くいちがいこぐち)や枡形虎口(ますがたこぐち)などを作って厳重に守っていたのです。

まとめ

城下町は城の発展とともに発達してきました。
現在でもその町割りがよく残っているところがあります。
江戸時代の絵図を片手に街歩きをすると新たな発見があることでしょう。
それもお城めぐりの楽しみのひとつですね。
ということで、城を守る城下町というお話でした。
じゃあね🖐️

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