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【江戸時代のお家騒動】庄内藩・酒井忠重のお家乗っ取り 暴君の野望恐るべし!

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【時期】1646年(正保3年)
【舞台】庄内藩
【藩主】酒井忠勝
【主要人物】酒井忠勝、酒井忠重、酒井忠当、高力喜兵衛

餓死者1000人を出した典型的「暴君」酒井忠重

江戸時代初期、欲しいもののためには手段を選ばない、まさに「暴君」のイメージがぴったりだとされる大名がいた。それが酒井忠重だ。彼は庄内藩の初代藩主・忠勝の弟であり、兄の転封に合わせて白岩領8千石の領主となったが、その後本家の乗っ取りを企み策略を巡らせたのである。

白岩時代の忠重の暴政は凄まじかった。10年以上にわたって農民たちに苛政を強いており、その容赦ない取り立てによって餓死した者は、1000人以上にものぼったという。
1633年(寛永10年)には、ついに不満を抑えきれなくなった農民たちにより一揆が発生。農民たちは幕府に二十三ヶ条の訴状を提出し、忠重の暴政を止めようとした。しかし忠重の兄である忠勝が幕府に掛け合ったと見られ、結果は農民側の敗訴。訴えを行った農民たちは傑にされ、領地でもこれに加担したと見られる者たちが忠重によって処罰されている。

だがその5年後、忠重も領地を没収されてしまい、彼は兄のいる庄内藩で客分として暮らし始める。そして忠勝を支えていく中で、発言力を増していったのだった。こうして、奇しくもお家騒動の下準備が出来上がってしまう。
農民による一揆の時、そして領地没収後と忠勝に助けられた忠重。しかしそれにもかかわらず忠重は、忠勝の子・忠当に代わり自身の子を藩主に据えようと次第に画策するようになっていった。

野望達成まであと一歩のところで……

しかしそんな忠重の企みに気づいた者がいた。酒井家の家臣・高力喜兵衛(こうりき・きへえ)である。
忠当と従兄弟の関係でもある高力は、彼を排除しようとする忠重と対立。高力らは忠当の舅にあたる老中の松平信綱に忠重のことを密かに訴え、彼と忠勝をどうにか引き離し、藩の情勢を改善したいと協力を求めた。

ところが、この頃に高力の味方であった毛利長兵衛という男が、忠重に捕らえられてしまった。忠重は毛利を脅迫し、自分の腹心となることを強要。高力のことを忠勝に讒訴するよう命じたのである。
毛利はこれに従い、「高力らは信綱と組んで忠勝を早々に隠居させようとしている」などと、全くのデタラメを忠勝に訴えた。忠勝はこれに激怒し、1646年(正保3年)に高力とその一族を酒井家から追放。彼に加担した者たちも、次々と切腹や追放などの処罰を受けることになった。

政敵もいなくなり、忠重のお家乗っ取り計画は順調に進んでいるかに思われた。ところがその翌年、思わぬアクシデントに見舞われる。忠勝がこの世を去ってしまったのだ。家督は忠当に継承され、これによって忠重の陰謀は失敗に終わった。
しかし忠重はそこで引き下がらなかった。1653年(承応2年)、自分は忠勝の遺言で2万両をもらう約束になっていると、忠当に申し出たのである。当然、忠当は困惑した。そのような話は聞いたことがなく、遺言状もなかったからだ。

けれど忠当は家臣らと相談し、あえてこの申し出を利用することにした。つまり、2万両を渡す代わりに、今後一切本家に関わらないという約束をさせたのである。
その後忠重は、1665年(寛文5年)に娘の婚儀を巡ってトラブルを起こし、これがきっかけで改易処分となっている。そして処分を受けて下総に隠居したものの、そこで夜盗に襲われて亡くなったという。暴君のあっけない最期であった。

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