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明智光秀と浅井長政ーーあるいは「不安」が背中を押したのか?

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今週の『麒麟が来る』は織田信長がメインに絡むストーリーなら絶対に出てくる「金ヶ崎撤退戦」である。そこで重要な役割を果たすのが信長の義弟、浅井長政だ。

浅井長政は北近江の戦国大名である。
一般に「あさい」と呼ばれるが、正しくは「あざい」とする説が有力だ。この一族はもともと近江半国守護京極氏の家臣であったのが、戦国時代になって下克上を果たした。
しかしやがて南近江の六角氏からの圧力が強まり、長政も当初六角氏の家臣の娘を娶り、六角義賢から「賢」の一文字を受けて賢政を名乗るなど、実質的な支配下に置かれていた。

しかし長政は最初の妻を離婚した上で六角氏に戦いを挑んで破り、再び独立の道を進む。
尾張から美濃へ進出した織田信長の妹・お市を新たな妻に迎えたのはまさにこのような事情の中でのことであった。目的はもちろん織田の後ろ盾を得て六角氏と戦うことであり、実際に信長は上洛の過程で六角氏を攻め滅ぼしている。結果、北近江における浅井氏の勢力は安定することになったのだった。

ところが、信長が越前の朝倉義景を攻めたとき(名目上は幕府としての行動であり、光秀をはじめ幕臣たちも付き従っているが、信長が朝倉を排除したかったのだと考えるのが通説だ)、長政は突如として義兄を裏切る。
これによって信長は近江で孤立してしまうことになるが、しんがりの家臣を残して京へ逃走。西近江に大きな力を持ち京への逃走路に領地を持つ朽木元綱(足利義昭を一時匿うなど、幕府との関係が深い)の協力を得て、どうにか逃げ切ることに成功するのだった。

一方、しんがりで活躍した武将としては木下秀吉(のちの羽柴秀吉、そして豊臣秀吉)の名前がよく知られているが、当時の彼の立場はそんなに大きなものではなく、軍記物に描かれるような大活躍ができたはずはない。
名のある武将として実際に兵を率いて戦ったことがわかっているのは我らが主人公・明智光秀、また摂津守護の池田勝正の二人である。同盟者として参陣していた徳川家康もこれに加わったという話が有名だが、実ははっきりしない。

その後、長政は朝倉義景とともに信長包囲網に参加し、信長をたびたび苦しめることになる。
織田・徳川連合軍が近江を攻めたときに浅井・朝倉連合軍が迎え撃った「姉川の戦い」で敗れもしたが、数年にわたって信長にとってかなり厄介な存在だったのは事実であろう。しかしついに朝倉氏とともに織田の軍勢に敗れ、居城の小谷城を攻め落とされて死ぬことになる。
だが、妻のお市は信長のもとへ戻り、長政とお市の間に生まれた3人の娘が歴史の重要な場面へ顔を見せることになる……。

長政は「信長を裏切った男」の中でも、光秀と並んで特に有名なうちの一人と言っていいだろう。
信長が完全に油断していた背中を狙った、という点で似ているといってもいい。
動機としてはどうだろうか。両者の思惑を完全に知ることはできないが、「織田政権における自分の立場」を不安に思った、というのはあるかもしれない。
以前のコラムで書いたように光秀は長宗我部氏問題で面目を潰され、立場が危うかった。一方で長政はいかに信長の義弟といえど、もともと近江に基盤を持つ大名であり、己の家臣団が織田政権に吸収され安定しうるか不安に思い、それなら父や祖父の代から付き合いのある朝倉氏と結んだほうがマシと思った、というのはどうだろうか。

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