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【お城の基礎講座】74. 中世城郭(ちゅうせいじょうかく)

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平安時代以降になると中世の武士たちが城を築きました。
それらは山上の城と麓の居館(きょかん)とに分かれており、それらを合わせて中世城館(ちゅうせいじょうかん)と呼んでいます。
今回は武士が築城した中世城郭(ちゅうせいじょうかく)について学んでいきましょう。

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中世城郭・武士が築城した城

平安時代までの城は朝廷(ちょうてい)による国家プロジェクトとして、大規模な城が築かれていました。
しかしそれ以降になると武士による築城が始まり、城の規模は縮小していきます。
武士と言っても国人(こくじん)や土豪(どごう)と呼ばれる階層の人々で、自分の領地を治めている人々のことです。
経済力がとても良いわけではなく、一つ一つの城を守る兵の数も少なかったのが特徴です。
ひとつの城を数十人程度で守るということが多かったようです。
また中世城郭(ちゅうせいじょうかく)で最も多いのは山城です。
戦(いくさ)になると山に逃げ込んで守るというための施設でした。

二元構造

戦いの時に山を利用して城としていましたが、普段の生活にはとても不便でした。
そのため通常は山麓に居館(きょかん)を作って住んでいました。
居館とは山城の麓や少し離れた平らなところに作られたもので、周囲に土塁や堀などを巡らせた住居のことを言います。
つまり普段は居館に住み、戦いの時は山城に立て籠もるという二元構造をとっていたのです。
今ではこの山城と居館を合わせて中世城館(ちゅうせいじょうかん)と分類されています。

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福井県にある山上の一乗谷城と山麓の朝倉氏館は、二元構造の中世城郭として見ごたえたっぷり

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岐阜県飛騨市にある江馬氏下館(山麓)には城館が復元されており、高原諏訪城(山上)には曲輪や土塁などの遺構が残る

 

一乗谷城朝倉氏館(福井県)江馬氏下館(岐阜県)などは遺構が残っていたり復元がされているなど、中世城館を見るのに適しています。

山城の構造

中世城館に最も多いのは山城です。
山城は基本的に山の尾根伝いに段々畑のように小さな曲輪(くるわ)を幾つも連ねて要所要所に空堀や土塁を配置します。
土で出来た城というのが基本です。
石垣は土塁の土留め程度や虎口(こぐち)の脇に飾り程度に使われるだけでした。
石垣を築くという技術がまだまだ未熟で低い石垣しか作れなかったからです。
一方で地形を生かした縄張りなどが発達し、天然の断崖や切岸という人工の断崖などを作るなど、知恵と工夫が活かされた城作りになっています。
基本的には非常事態の際にしか使われない山城のため、建物などもほとんどなく小屋程度のものが大半を占めていました。

まとめ

中世城郭は、それまでの朝廷による巨大な城作りから各武士たちが作る小さな城作りへと変化していきました。
戦いのための城なので防御性に優れ、山の上に立てこもるために山城が多用されました。
普段は山麓居館に住んでいるという二元構造も特徴のひとつです。
ということで、中世城郭についてのお話でした。
じゃあね🖐️

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