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【江戸時代のお家騒動】蒲生騒動 藩主夭逝が藩内の混乱を招く悪循環

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【時期】1598年(慶長3年)~1627年(寛永4年)
【舞台】会津藩、宇都宮藩
【藩主】蒲生秀行、松平忠郷
【主要人物】蒲生氏郷、蒲生秀行、松平忠郷、蒲生郷成、岡重政

信長、秀吉にも愛された蒲生氏郷が、会津藩の基礎を築く

蒲生騒動は戦国時代に起きたお家騒動だ。
騒動の舞台となるのは、豊臣政権時代に活躍した大名・蒲生氏郷が亡くなった後の蒲生氏である。氏郷は近江出身で、はじめ織田信長に仕えていたとされる。
信長は氏郷がまだ13歳であった頃から彼の力量を見抜いていたようで、自分のもとで元服させたり娘の冬姫を娶らせたりしている。

その信長が本能寺の変で亡くなり、後を継ぐかのように羽柴秀吉が台頭してくると、氏郷は秀吉に従うようになった。
そして1590年(天正18年)に小田原征伐が行われると、秀吉はこれに参陣しなかった奥州の諸大名に対し、仕置きを行った。対象の大名から領地を没収し、空いた領地に自分の家臣たちを配置したのである。

その中のひとりが氏郷だ。彼はそれまでの領地であった伊勢から会津へ転封となった。氏郷が会津に配置されたのには理由がある。会津は奥州勢が京へ向かうために必ず通らなければならない要所である上、奥羽には「東北の覇者」と称される大名・伊達政宗がいたのだ。
つまり、秀吉は奥州勢力をけん制するために氏郷を会津に置いたのだった。信長だけでなく、秀吉も氏郷の実力を認めていた証拠といえるだろう。

会津に入った氏郷は、新たに城を築き城下町の整備も行った。
城下町は拡張され、これまでの寺社や侍屋敷が入り交じった形態から、武家屋敷を分離した町割りへと変更された。また城は七層の天守閣を有しており、その威圧感漂う様とその城のもとに広がる城下町の風景は「奥州の都」とまで称されたという。
氏郷はここに江戸時代の会津藩の礎を築いたのだった。

氏郷亡き後、重臣同士の対立激化し宇都宮へ転封となる

そんな氏郷は、1595年(文禄4年)に40歳という若さで亡くなってしまう。氏郷の子息の鶴千代はまだ13歳だったが、秀吉の命により元服して藤三郎秀隆と名乗り、家督と領地を継承することとなった。
しかし、まだ若い秀隆には後見人が必要である。そこで秀吉は、徳川家康や前田利家たちを後見人としてつけた。当時の有力者たちが後見人として名を連ねているのは、信長の娘を母に持つ秀隆に対する配慮だったのかもしれない。秀隆は1595年(文禄4年)に家康の娘・振姫と結婚し、徳川家との姻戚関係を築くに至っている。

順風満帆に見える秀隆だったが、この頃からすでに内部に問題を抱えていた。家臣同士の対立抗争である。
もともと氏郷の存命中から対立の火種はあったものの、氏郷の統率力によって彼らは束ねられていた。しかし氏郷が亡くなり、まだ若い秀隆のもとではついに家臣らを抑えきれなくなったのだ。

特に秀隆の側近・亘利(わたり)八右衛門、蒲生郷成(さとなり)と仕置奉行を務める重臣・蒲生郷安(さとやす)が対立しており、1598年(慶長3年)にはついにそれが表面化する事件が起きる。郷安が同じ派閥の者たちと謀り、八右衛門を斬殺したのである。

これを知った秀隆は怒って郷安を処罰しようとしたものの、郷安が秀吉の重臣・石田三成に助けを求めたことから、事件は豊臣政権の知るところとなった。
後見人の家康の助言により騒動はそれ以上膨らむことはなかったが、怒りのおさまらなかった秀隆によって郷安は退けられ、加藤清正のもとへ身柄を預けられることに。また、秀隆はこのような内紛を引き起こしたことを秀吉に咎められ、宇都宮への転封が決まったのだった。

しかし、秀隆の転封についてはじつは別の理由があったとされる。それが、亡くなった氏郷の妻・冬姫に関するものだ。
信長の娘である冬姫は、若い頃から美人であったことで知られており、秀吉は夫をなくした彼女を側室として迎えようとした。しかし冬姫はこれを強く拒み、秀吉から使者が送られてくるとその目の前で髪を切り、尼になる決意を見せたという。これに秀吉が怒ったために、秀隆は減封となったのだといわれている。

こうして秀隆は宇都宮に移ることになったのだが、この時に秀隆を見限った者は多く、新たに会津領主となった上杉景勝に従う者が多かったという。

会津に返り咲くも再び重臣対立が表面化、失意のうちに2代目も死去

しかしその後、秀隆に再び会津に帰還するチャンスが訪れる。
秀吉の死後、関ヶ原の戦いが勃発すると、秀隆は当然ながら義父にあたる家康の東軍に味方した。そしてこの時、宇都宮城にあって奥州の押さえとなったことが功績として認められ、戦後に会津60万石への転封が決まったのだ。これは、妻・振姫が家康に頼み込んだのが大きかったともいわれている。

こうして秀隆は、再び会津の地に戻ってきた。3年ぶりの帰還、この時秀隆は19歳である。この頃に秀隆は改名し、以後秀行と名乗るようになった。
だが騒動は再び起ころうとしていた。再度の会津支配にあたって、前代から仕置奉行を務める町野繁仍(まちの・しげより)と玉井貞右(たまいさだゆう)、そして新たに岡重政(おか・しげまさ)の3名が仕置奉行に任命された。ところが、宇都宮時代から仕置奉行として働いていた蒲生郷成は任命されなかった。しかも秀行はその後も重政を重用したため、郷成ら旧臣らとの間に確執が生じることとなってしまったのだ。

このような混乱状態にあったせいか、会津での秀行の政治はうまくはいかなかった。
さらに1605年(慶長10年)から続いた度重なる凶作と飢餓、1611年(慶長16年)には大地震が起き、会津地方は甚大な被害を受けている。天災に加えて、幕府からの軍役や普請役が藩政に重くのしかかつた。それらのしわ寄せはすべて重い税という形で農民に向けられることになる。そのため秀行の打開策も虚しく、会津から逃げだす農民たちが多く出てしまった。

郷成と重政の争いは家中を二分する事態となっていたが、秀行はまたしても両者の争いを抑えきれなかった。
そしてついに、1609年(慶長14年)には郷成が出奔する事態となってしまう。その後、不幸なことに秀行は病のため1612年(慶長17年)にこの世を去った。30歳という若さだった。

3代目の母にして家康の娘・振姫と重臣の岡重政が対立

秀行の死により会津を相続することになったのは、嫡子・亀千代だ。
わずか10歳で藩主となった亀千代は、弟の鶴千代と共に江戸の将軍・秀忠と駿府の大御所・家康のもとを訪れ、松平姓を与えられた。家康は2人を元服させると共に、亀千代を忠郷、鶴千代を忠知と名乗らせる。さらに忠郷の姉が秀忠の養女となる等、秀行死後の蒲生家を家康はことさら気にかけていたようだ。

というのも、未亡人となった秀行の妻・振姫のことを、家康はたいそう可愛がっていたという。振姫も父を慕っており、秀行が亡くなった後の数々の援助を大変喜び、まだ幼い忠郷が成長するまで自らが蒲生家を支えていく覚悟をしたようだ。
ところが、そんな振姫にとって厄介な存在だったのが、蒲生家の勢力を二分する原因となった岡重政である。2人はことごとく意見が噛み合わず、特に大地震の後に社寺を再建するという話が出ると、両者は激しく対立した。仏教を重んじる振姫は社寺の再建に藩財政を注ぎたかったのだが、財政を管理する重政がそれを許さなかったのだ。

これが振姫の怒りに触れた。彼女は重政を蟄居させた上に、家康のもとへ赴き重政に処罰を与えるように願い出たのである。家康は振姫の訴えを聞き入れ、重政を駿府に呼び出すと死罪を言い渡した。
こうして、先のお家騒動の渦中にあった重政がいなくなると、出奔した蒲生郷成らが会津に戻ってくることとなった。しかし郷成は帰途の際に亡くなってしまったため、仕置奉行の職務には町野繁仍の子・幸和と、玉井貞右があたることになる。

しかし幕府は、再度お家騒動を起こした蒲生家に対し、不安を抱いていたようだ。
1614年(慶長19年)には将軍・徳川秀忠から、揉め事を起こさないよう注意を促す黒印状が2人の仕置奉行宛てに送られ、さらに翌年には国目付が設置されて、お家騒動が起こりやすい藩への監察が行われるようになったため、会津藩もこの監察下に置かれた。

だが、このような幕府の尽力も虚しく、やはり家臣の対立は起こった。今度は仕置奉行の町野幸和と、会津帰途に亡くなった蒲生郷成の子である郷喜・郷舎兄弟が対立したのだ。この時は国目付の報告によって家康が裁決するところとなり、郷喜・郷舎兄弟らが家禄を没収され改易となった。

ところがその6年後、1622年(元和8年)になって今度は幸和が幕府に訴えられ、仕置奉行を辞任する事態になると、郷喜・郷舎兄弟が再び息を吹き返している。
このように家臣らの間で対立が絶えない中、忠郷は25歳で亡くなってしまった。忠郷には子がいなかったため、伊予松山城主の加藤嘉明が新たに会津に入ることとなり、会津蒲生家は3代で断絶となったのである。

それでも幕府は、伊予松山に忠郷の弟・忠知を封じるなどの処置を行った。しかし忠知もやはり短命で、嗣子のないまま30歳で亡くなってしまったため、蒲生家は改易となってしまつた。

氏郷の死後、お家騒動がひっきりなしに続いてしまった蒲生家。その原因は藩主が若くして亡くなり、まだ統率力のない幼子が跡を継がなければならなかった、という事態が繰り返されてしまったことが大きいだろう。

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