攻城団ブログ

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黒まめさんのオンライン研究会「躍動する熊野の武士団」参加レポート

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団員の黒まめさんが国の史跡に指定された地元の「安宅氏城館跡」について調べるために参加したオンライン研究会「躍動する熊野の武士団」のレポートを書いてくれました。
こんなふうに地元のお城について調べてみんなでシェアしあうことができればとても楽しいですよね!

2020年3月10日、和歌山県白浜町の「安宅(あたぎ)氏城館跡」(5か所)が、国の史跡に指定されました。攻城団には、5か所のうち安宅氏城館(安宅本城)と八幡山城の2か所の城跡が登録されています。和歌山県民として、国の史跡指定は大変うれしいものでした。
その反面、あと3か所が攻城団未登録なので、何とか登録したいと強く思いました。そこで、考えたのは、ひとつには現地を実際に訪れることでした。そのための情報を探るうちにこの研究会にたどり着いたのです。これはぜひとも参加して情報を得ようと考えました。

この研究会「躍動する熊野の武士団」は、安宅氏城館跡の国史跡指定の記念に、紀伊考古学研究会、和歌山地方史研究会、和歌山城郭調査研究会の3団体の共催で行われたものです。安宅氏城館跡の情報を得るにはぴったりだと思いました。内容は、県民である私もほとんど知らなかった「紀伊の群雄たちについて」、そして今回指定された「安宅氏城館の概要について」なので、攻城団の皆さんにもぜひ知ってもらい、攻城のお役に立てていただきたいと思い、つたない報告をさせていただきます。

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安宅本城前にある、安宅荘の案内板

和歌山県立博物館の坂本亮太氏の報告「熊野の戦国史―応仁の乱後の熊野を考える―」

和歌山県は海岸線にぽつぽつと市街があり、中心部は山林になっています。県庁所在地である県の中心・和歌山市と紀南はかなりの距離があり、紀南の熊野地方の史料は放置されてきたのが現状だそうです。豊富にある史料を整理・集成し、検討するという作業にやっと本腰を入れ出したという状況なので、今後新たな事実が判明する期待もあります。

戦国熊野を紐解く史料

古文書・古記録 久木小山(ひさぎこやま)家文書など小領主文書、熊野那智御師文書など熊野三山の文書等
発掘調査資料(考古資料) 紀南から三重県紀宝町、熊野市を含む城跡、城下町遺跡など
城館(縄張)調査 『近畿の城郭』『戦国和歌山の群雄と城館』『和歌山城郭研究』など成果が蓄積されて出版物も続々と刊行されている。
石造物 石碑、墓石等金石文等資料
棟札 社寺や屋敷などの建築・修繕の記録・記念として棟木、梁など建物内部に取り付けた札
美術工芸品 小山氏勧請の日吉神社の懸仏。安宅氏勧請の安宅八幡人神社の板絵八幡神像など

以上のようなものが考えられます。

熊野の武士団

紀伊には、教科書に載るような目立った戦国武将は存在しませんでした。多くの小領主たちがしのぎを削る、まさに群雄割拠する状態だったと言えます。
では、熊野を含む紀南にはどういった勢力があったのでしょうか。

武士団等 本拠地 主な居城、館
湯河氏 御坊、日高地方 小松原館、亀山城
玉置氏 御坊、日高地方 手取城
山本氏 市之瀬 龍松山城
久木小山氏 日置川上流  
安宅氏 日置川下流、白浜町 安宅本城八幡山城、要害山城、土井城、中山城
周参見氏 すさみ町 神田城、藤原城、里野中山城
西向小山氏 串本、古座 結城城
高川原氏 古座川下流  
泰地氏 太地町 太地城
堀内氏 那智、新宮 勝山城、藤倉城
野長瀬氏 近露  
鬼城氏 本宮  
西氏 熊野川中流  
鵜殿氏 熊野川下流東、紀宝町 鵜殿城
この表は、レジュメをもとに私が作成したものです。
(灰色マス……国の史跡に指定された城)

熊野は、世界遺産にも登録されている、熊野三山と参詣道があります。
表に示した武士団の他に、那智山実報院、廊之坊、新宮熊野七上綱などといった熊野三山社家勢力があります。「社家」とは、特定の神社の祭祀を世襲する家のことです。今で言えば神主さんとか宮司さんといった人の家系だと思います。

この時代には「御師(おし)」といった、社家と庶民との仲立ちをするような立場の人もおり、なんかややこしいです。おまけに神社と寺院の別もあまりはっきりしていなかったようです。「社僧」といった神社に属する僧侶もいたようです。熊野三山の統括をする熊野別当家も、社僧の一族でした。
(武蔵坊弁慶は熊野別当の湛増の子であるという伝説は、今も地元で根強く存在します)

表に記した武士団は、港や関などの交通・流通、金融、山林、もちろん農業なども生業にしながら、互いの動向に気を配り、暮らしていたようです。海運に従事するものは、水軍としての性格も強く持っていたようです。

戦国期の西牟婁(にしむろ)・東牟婁(ひがしむろ)

守護・畠山氏の内訌
畠山義就(よしひろ/よしなり)と畠山政長の対立

応仁の乱

明応の政変
足利義澄と足利義材(よしき:後の義植)の将軍後継争い

上記のような大きな中央での争いが、紀伊の守護である畠山氏を介して飛び火し、巻き込まれる形で争いがどんどん南下していきました。
東牟婁でも同様ですが、あまり積極的に対立に加わろうとはしていなかったようです。消極的ながら、畠山義就方かな? という立ち位置であったようです。東牟婁では特に、熊野三山勢力の力が強く、明応の政変後も中立的立場をとっていたようです。
そんな中、堀内氏という武士団が台頭してきたのが15世紀末ごろのことです。

天正2年~4年ごろ、足利義昭の紀伊下向に際して、信長包囲網構築のため、堀内氏と九鬼氏、志摩衆との合戦があったようです。その後、信長の方から堀内氏に近づいて朱印状を送っています。
ところが、自ら武士であることを自認していた堀内氏は、朱印状のあて先が「熊野新宮神主、堀内新次郎殿へ」であったことが気に入らず、黙殺したようです。

豊臣期の熊野

天正13年(1585)紀州攻め

沿岸部の武士→秀吉に従い、領地を安堵されている者が多い。
山間部の武士→秀吉に抵抗する者が多い。→熊野一揆へ

天正13年(1585)熊野一揆

8月、秀長が「奥郡成敗」のため出陣。
首謀者、山本氏は熊野の村々を味方につけるため知行宛行をするも、9月には鎮圧され、11月に大和で首がさらされた。

慶長3年(1598)山地一揆

秀吉が没し、田辺城の杉若無心が伏見城へ向かった隙をついて、日高郡の小川与一等が蜂起。増田長盛が玉置氏などに鎮圧を指示し、一揆は鎮圧される。

慶長19年(1614)北山一揆

大坂冬の陣で新宮城主浅野忠吉が出陣した隙をついて、北山地方の土豪が蜂起。新宮城を目指すも、熊野川を渡れず撃退、一揆は鎮圧される。

秀吉の紀州侵攻で押さえつけられた在地勢力は、支配者側が領地をあけた隙をついて、一揆を起こしていますが、どれも鎮圧されています。

白浜町教育委員会 佐藤純一氏の報告「熊野水軍と史跡安宅氏城館跡」

白浜町の概要

旧白浜町と旧日置川町とが合併して、現在の白浜町となりました。
日置川の河口は、瀬戸内海航路と太平洋航路が接続する地点で、重要な結節点にもなっていたようです。
日置川の河口部には安宅氏が、上流山間部には小山氏(久木小山氏)が領主として存在し、互いに協同関係を保っていたようです。

安宅氏とは

もともと北条氏により、阿波から紀伊水道の海賊鎮圧のため派遣された一族だったようです。
その後、日置川河口に拠点を定め、畠山氏の内訌、争いに関わりつつ、周辺の勢力と協同と敵対を繰り返していたようです。
秀吉の紀州侵攻により帰順し、朝鮮出兵に際しては、「熊野衆」として熊野水軍を率いて参戦した記録が残っています。また、近世では紀州藩の地士として地域で影響力を持っていました。その後、北海道からサハリンへ移住したそうです。

安宅氏城館

安宅氏居館(安宅本城)、八幡山城、中山城、土井城、要害山城、大野城、勝山城および大向出城の8か所(古武ノ森城を含めると9か所)の城跡が残っています。
今回、国史跡に指定されたのは、安宅氏居館、八幡山城、中山城、土井城、要害山城の5か所です。水軍領主として自立的な領域支配を行っていた証左となる点で重要な史跡であると認められたということです。
以下は、それぞれの史跡の概要です。(写真は黒まめが撮影したものです。)

①安宅氏居館(安宅本城)

南北約120m、東西約100mの範囲が指定された。ほぼ「城ノ内」という小字の範囲。備前焼陶磁器破片、南伊勢系土師器破片、ふいご羽口、鉄砲玉、和鏡等出土。

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日置川方向から城ノ内を見る

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左の住宅の下部に残る石垣
②八幡山城(日置八幡山城)

居館の詰城。南北約200m、東西約120m。一の曲輪、二の曲輪、大堀切、土塁、階段状の石積みなどが見られる。石積みの石は、在地の砂岩。投石用と思われる川原石が出土。

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説明板

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居館から詰の城八幡山城を見る

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土塁上の石積み

 

③中山城

安宅荘(居館跡があるあたり)から日置川をやや遡った田野井地区に位置する。最高所は約38m、大小2つの方形曲輪が組み合わさる。出土物は少ないが、15世紀後半から16世紀初頭を主として、16世紀後半や17世紀前半の遺物も出土している。

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説明板

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土塁に囲まれた曲輪Ⅱ

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内堀
④土井城

富田荘から安宅荘への街道沿い。南北約240m、東西約80m。熊野参詣道大辺路を介して、要害山城とは対となる。安宅荘北側入り口となる要所。土木量が大きく、築城技術も高い。

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説明板

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横堀

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⻁口下の石積み
⑤要害山城(馬谷城:うまんたにじょう)

熊野参詣道大辺路富田坂沿いに位置する。境目の城。安宅氏の最前線基地。富田荘(奉公衆山本氏の領域)側の斜面に、畝状竪堀群を設け、厳重に守る。南東尾根は、現在紀勢道要害山トンネルの真上に位置する。

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説明板

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東南尾根と曲輪Ⅲとを断ち切る堀切

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主郭下の切岸
⑥その他の城
勝山城 標高212m。安宅荘を見渡せる(山頂部が古武ノ森城)。
大野城 河川交通の要所を押さえる。日置川を挟んで、八幡山城の向かい側。
大向出城 岬の突端。海上交通の見張り。

以上の3城(4城)は、今後の追加指定を目指し、詳細な調査を行っていく予定。

終わりに

オンライン研究会の報告は以上です。今後攻城団に未登録の中山城、土井城、要害山城を登録したいと考えています。研究会の内容をもとに、実際に攻城もしてきました。国の史跡として、登城路、説明板の整備もなされており、攻城しやすい山城群だと思います。

みなさんも歴史に独特の光芒を残した熊野武士に思いを馳せてみませんか。

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