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【江戸時代のお家騒動】柳川一件 日朝を揺るがす前代未聞の「国書改竄事件」

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【時期】1631年(寛永8年)
【舞台】対馬藩
【辣主】宗義成
【主要人物】柳川調興、宗義成

朝鮮との和平交渉に関わる対馬藩内の対立

この事件は、別名「国書改竄事件」とも呼ばれる。
日朝関係において代々重要な役割を果たしてきた対馬藩で、国書の改竄などの不正をめぐり藩主と家臣が対立したことから、そのような別名で呼ばれているのだ。

対馬藩の領土は農業には向いておらず、昔から朝鮮との貿易によって生計を立ててきた。
ところが豊臣秀吉の朝鮮出兵以降、日本と朝鮮の関係は破綻。朝鮮出兵は1598年(慶長3年)の秀吉の死去によって、全軍が日本へ撤退する結果となった。
翌年から早速対馬藩主宗義成による和平交渉が行われているが、これは秀吉に代わって政権を握った徳川家康というよりは、対馬藩の意向が強く影響していたようだ。自給自足ができない対馬藩では貿易がなくなることは死活問題であったからだ。

1601年(慶長6年)、対馬藩主の宗義智(そう・よしとし)とその家老である柳川調信(やながわ・しげのぶ)は、朝鮮出兵の際に捕らえた朝鮮人捕虜を返し、日本へ使節を送るように求めた。何度か交渉を試みるうち、その年のうちに朝鮮から、捕虜をすべて返すなら和議に応じるという返答があった。
状況はそれ以上の好転を見せなかったが、1604年(慶長9年)に朝鮮から対馬藩に使節が送られてくる。

義智はこの使節とともに伏見へ赴き、大御所・家康と将軍・秀忠に面会させた。これにより、対馬藩は朝鮮との交渉を幕府に一任されるとともに、2800石を与えられることになった。
この時、その2800石のうち1000石が、調信の子・智永(としなが)に分与されている。これは幕臣・本多正純の指示であったといわれるが、このようなことが柳川氏に「幕府直参」という意識を植え付け、のちの騒動の一端につながったのではないだろうか。

朝鮮への対応に困った末に国書偽造を図る

対馬藩のこれらの働きにより、1606年(慶長11年)に朝鮮から和議に応じるとの知らせが来る。
しかし朝鮮からもたらされた和議の条件が、対馬藩を困らせることになった。その条件とは、日本側から朝鮮に国書を出すこと、朝鮮出兵の際に先王の陵墓を荒らした犯人を見つけて差し出すことの二つであった。

これらはいずれも簡単な内容ではなかった。当時のならわしでは、国書を先に出した国は降伏宣言をしていることと同義とされたからだ。そして、誰ともしれない陵墓を荒らした犯人を見つけることはもはや不可能である。
そこで対馬藩は、この件とは無関係の罪人を陵墓荒らしの犯人に仕立て、引き渡す計画を思いつく。だが、国書はそうもいかない。将軍家に負けを認めろと言っているようなものでる。

困った挙句、対馬藩は国書の偽造を行うことにした。幕府には知らせず、密かに改竄した国書を提出したのだ。
その後、朝鮮から送られてきた返書についても、矛盾がないように偽造を行っている。朝鮮は偽造の事実に気づいていたと考えるが、再び日本を敵に回すことは得策ではないと考え、黙認して交渉にあたったようだ。
その甲斐もあって、1609年(慶長14年)に朝鮮と対馬藩の間に己酉約条を結ぶことに成功した。これは貿易協定であり、対馬藩の悲願である貿易がついに再開されたのだ。

その後の日朝外交にも大きな影響を与える

1613年(慶長18年)、柳川智永の子・調興(しげおき)が柳川氏の家督を継いだ。
調信の頃より宗氏とともに日朝問題にあたっていた柳川氏は、その功績を幕府にも認められるほどの存在となっていた。さらに調興は、祖父の調信が日朝問題を担うにあたり、人質として駿府に置かれていたこともある。このようなことから、調興が当主になった頃の柳川氏は、幕府の権威を背景に勢力を伸ばし、さらに幕臣化をはかっていたと思われる。

そのため宗氏は、幕府にアピールするため外交能力を示す必要に迫られた。
幸運なことに、朝鮮では君主交代によるごたごたと国外勢力による反乱の危機を感じ、日本との繋がりを強める必要にかられていたため、両者の関係は外見上は非常に良好なものとなっていったようだ。
またこの頃、将軍の代替わりが行われ、徳川家光が三代将軍となっている。朝鮮使節の将軍就任の祝いのための来日が宗氏の仲介によって実現し、翌年の1624年(寛永元年)には朝鮮から使者が訪れている。

しかし柳川氏が幕臣を望んでいることに宗氏が強く反対したことから、お家騒動が勃発してしまう。当時の藩主・宗義成に反抗した調興が、幕府に国書改竄の件を訴えたのだ。
この件は、1635年(寛永12年)に家光によって裁かれた。両者それぞれに尋問が行われた後、江戸城にて直接取り調べがなされ、裁定がくだされた。
その結果、非があるとされたのは調興の方で、彼は弘前藩へと預けられることになったのである。

一方の義成は、罪に問われなかった。
幕府の朝鮮に対する認識が充分でなかったこと、それにより宗氏が国書の改竄という手段をとらざるをえなかったことが、無罪となった理由である。しかしその他にも政治的要素が絡んでおり、幕府の創世期に家臣を罰することで主従支配の強化を図ろうとしたことや、柳川氏よりも中世から朝鮮との関わりが深い宗氏に日朝問題を任せたかつたことが大きかったのではないかと思われる。

この柳川一件は、その後の朝鮮外交に影響を与えた。
以降は偽造防止のために、国書の作成・管理は対馬島内の以酊庵(いていあん)という禅寺にて、僧が交代で行うことになった。さらに、「将軍の呼称は『日本国大君』に統一する」「日本年号を用いる」などの決まりが設けられており、幕府が朝鮮外交の姿勢を見直すきっかけになったことが窺える。

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