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【江戸時代のお家騒動】船橋事件 家臣同士の権力闘争は喧嘩両成敗に

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【時期】1634年(寛永11年)
【舞台】弘前藩
【藩主】津軽信義
【主要人物】津軽信義、船橋半左衛門、乾四郎兵衛、兼平伊豆、乳井美作

開発事業や神社仏閣の再建に注力した津軽信義

船橋事件とは、弘前藩の三代藩主・津軽信義(つがる・のぶよし)の時に起こった家臣同士の権力闘争である。
信義は父の死によって家督を継ぎ、1631年(寛永8年)に13歳の若さで弘前藩主となった。

江戸で育った信義は、その後も2年間は江戸で暮らし、1633年(寛永10年)に初めて領内に足を踏み入れる。
信義は「ジョッパリ殿様」という別名で有名だ。「ジョッパリ」というのは東北地方の言葉で「意地っ張り」を意味し、信義が反徳川だったといわれていることや数々の奇行のエピソードから、そのように呼ばれている。
ただし後者については後世の創作と思われるものが多く、実際には信義の治世で領内開発が進められていたようだ。新田開発や治水工事、尾太鉱山の開発などが代表的な政策とされるほか、神社や仏閣の再建にも力を注いでいる。

しかしそのような信義の政策の一方で、彼が国元に入った頃より家臣同士の対立が始まっていた。原因は、船橋半左衛門という信義の傅役である。
船橋は信義の代から仕え始めた新参者だったが、信義が藩主になったことによって権力を持ち始めた。加えて、船橋は譜代の重臣たちに対しても高圧的な態度をとっていたため、より一層反感を買うこととなったのである。

信義が船橋に強い信頼を寄せていたことも、譜代の重臣らの不満を高める原因となった。
江戸で暮らしていた信義は、国入りするまで藩を守る譜代の重臣らとの関わりがなかったために、必然的に傅役として長い間傍にいた船橋を重んじるようになったのだ。
そのため、信義は国入りしたその年に、船橋に400石を加増している。しかしその一方で、譜代の重臣であった兼平伊豆(かねひら・いず)や乳井美作(にゅうい・みまさか)のふたりが年寄役を罷免されてしまった。

これにより、譜代の家臣らの権力は一気に失墜。それにあわせて、これまで彼らの権力に押されていた新参の家臣らが、船橋に近づいて譜代家臣を上回るほどの権力を手にしていったのだ。こうして、兼平・乳井を中心とする譜代家臣と、船橋を中心とする新参家臣らの対立構図が出来上がったのである。

当然、譜代家臣の不満は募り、中には船橋を殺そうと企てる者もいた。しかしまだ幼い信義のもとでそのような騒動を起こすのはまずいと、国家老の服部長門によって何とか押しとどめられていたようだ。
ところが服部の死後、船橋が家老に就任すると、その専横はより一層深刻なものとなった。
同時期に家老となった乾四郎兵衛は、このような事態を収束するため、船橋と譜代家臣らとの仲介役を果たそうとしたが、そうするうちに船橋派とみなされてしまった。そして彼らに憤った譜代家臣らが、ついに行動を起こす。

譜代家臣VS新参家臣の対立は幕府の裁定に委ねられる

1634年(寛永11年)、三代将軍・家光が上洛した。
30万人以上がこの上洛に随従し、信義もその中のひとりだった。信義は2ヶ月近く京都に滞在した後、江戸に戻ってきた。
重臣らが動いたのはその時で、兼平伊豆・乳井美作を中心とした12人の家臣が浅草の町家に立てこもり、船橋と乾の専横を書状にまとめて幕府に提出したのである。

裁定を委ねられた幕府は、双方に尋問を行った。藩主である信義にも尋問は行われているが、まだ若いのにもかかわらず神妙な態度で応じたことが幕府の歓心を買い、信義に対するお咎めはなしとされた。
しかし事件の当事者はそうもいかず、幕府は喧嘩両成敗の形をとって、船橋と乾を松山藩へ、兼平と乳井を萩藩へ預けることを決定する。

こうして事件はひとまず落ち着いたわけだが、その後に兼平・乳井派の者が多く藩を去っており、信義にとっては彼ら譜代家臣を失ったことは手痛い損失といえた。
また一連の事件は、船橋の傲慢な態度によって引き起こされた騒動のように思われるが、兼平や乳井が船橋を憎んだ原因として「藩からの借財を申し入れたところ、武士の不覚悟を船橋に指摘され、そのことに腹を立てたから」とするものもある。それを考えると、一概に船橋を悪と決め付けることはできないだろう。

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