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【江戸時代のお家騒動】佐竹騒動 銀札流通の失敗で藩内経済が大混乱

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【時期】1757年(宝暦7年)
【舞台】久保田藩
【藩主】佐竹義明
【主要人物】石塚孫太夫、岡本又太郎、平元茂助、山方助八郎、梅津外記、大越甚右衛門

財政立て直しのために銀札を発行

出羽久保田藩は北関東の雄・佐竹義宣を藩祖とする。
豊臣政権に服属して常陸・下野54万5800石の領土を認められていたが、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで表面上は徳川家康に味方するような素振りを見せながらも、西軍に協力する動きもあったことから、戦後に領土を没収されて久保田藩20万5800石に移封となった。

その久保田藩では、七代藩主・義明の時代である1755年(宝暦5年)に銀札(藩内でしか出回らない紙幣。銀との交換が保証されている)の発行が行われている。
頻発した災害に端を発する財政難と凶作から領民を救うために打ち出された経済政策のひとつであった。ところが、この銀札が元となって領内の経済は混迷の一途をたどってしまう。

そもそも、銀札を発行するまでが一筋縄ではいかなかった。
久保田藩は1754年(宝暦4年)に「領民救済と経済活性化のため」として嘆願書を幕府に提出する。近隣の仙台藩などでは銀札発行が行われているため久保田藩でも認めて欲しいと書き添えられており、藩側としては成算は十分にあったのだろう。

だが、幕府は簡単に認めなかった。藩札によって藩同士の商売に差し支えた例があったからだ。幕府から「銀札の交換を容易にするため、信頼性の高い札元(藩札を発行・流通する者)が必要だ」と求められた久保田藩は有力な商人や町人を札元にすると約束し、発行を認められた。この後、34名の札元を幕命通り探し出している。
同年、発行に先駆けて藩札発行の目的や銀の交換率を藩内に公布。そして、1755年(宝暦5年)に銀札の発行を始めた。

銀札政策の迷走でインフレが進行する

しかし、銀札発行政策は藩が期待した通りにはいかなかった。藩が定めた交換率は守られず、銀札は額面よりも安く取引が行われていたのである。
これは銀札を持った者がすぐに銀と交換するために価値が下がり、町人や商人が額面通り替えなくなったためだ。

そんな中で凶作の兆しが見えたため、藩は飢饉に備えて米や餅、大豆などの買い取りを銀札を使って行わせた。だが、農民たちは銀札を受け取ることを嫌がり、米を隠したり、他国へ売りさばく。そのため藩内での米の価格が上がってしまった。
藩によって強制的に買い取った米は配給されたがこれも滞り、不満だけが募る結果となってしまう。それでも藩が銀札の流行を強引に進めたため、巻には銀札が溢れかえり、大きなインフレを起こした。

1756年(宝暦6年)の11月、銀札を発行してきた家老の真壁・小野田のふたりが蟄居、銀札奉行の赤石藤左衛門が改易となった。原因は藩主が定めていた米の買い取り価格を無視し、自分たちで勝手に決めていたからである。
義明は「藩に利益がなくてもいいから領民を困らせない」価格を設定していた。しかし真壁らはこれよりも安い額にしてインフレを抑え、かつ安く買い叩いて高く輸出することにより藩の利益を上げようとした。このことに藩内から不満の声が上がり、それが江戸にいる義明の耳にも届いたようで、この処分となった。

また、美濃の茶売り商人が幕府に訴えようとする事件も起きた。
久保田藩の銀札については、他藩の商売人には正金銀の流通が禁止されていたが、自分の藩へ帰る際には銀札を札元に持っていけば正金銀に替えられるという決まりになっていた。この決まりが破られている、というのは商人の訴えだった。

この訴えが江戸で裁判になってしまえば藩の大問題となる。場合によっては幕府からの圧力につながる可能性もあったろう。
それだけは避けたかった銀札奉行の平元茂助たちは示談を求め、商売人たちに今まで交換されなかった銀札を直ちに換金し、今後も藩内で茶売り商売をしてもいいという約束をすることで「ここだけの話」に留めさせることに成功。今後は正銀での取引を行うことを決めた。
この事件により、銀札手法についてその後四度の改正が行われている。しかし、銀札発行に関係する者たちの肩身は狭いものとなっていった。

銀札発行をめぐり藩内抗争激化、ついに佐竹騒動ヘ

これだけ事件が重なってしまえば、「銀札を発行し続けるか否か」で藩内意見が分裂するのはごく当たり前のことだった。
家老の石塚孫太夫・岡本又太郎。平元茂助らは「とりあえず事態を収拾するのが最優先」として銀札廃上を主張。藩の現状を救おうと、義明の叔父にあたる佐竹山城や佐竹図書を頼った。

これに対し、山方助八郎・梅津外記・大越甚右衛門の三家老らは、「銀札の他に藩財政を救う手立てはない」として、銀札推進を主張。もともと銀札が義明の命で進められた政策であることも、彼らの強みとなっていた。
当時、藩主の義明は江戸の藩邸で暮らしていたため、両派はそれぞれ使者を送って藩内の状況と相手方の動きを訴えた。しかし義明には、どちらの意見を採用するべきか即座に判断を下すことができず、その間に抗争が激化していったのである。

審議はもはや藩政の域を超えて感情的な対立となり、さまざまな根拠のない噂なども飛び交ったという。
中でも梅津の暴言は際立っていたため、反対派によって登城を禁止とされるほどだった。しかしこの梅津に対する処罰がさらに推進派を煽ることになり、抗争は泥沼化していったのだ。

そんな中、義明が江戸詰めの任期を終え、国へ帰ることとなった。
この帰国に慌てたのが、石塚ら反対派である。銀札を命じた義明の帰国によって、推進派が勢いをつけるのではないかという不安があったからだ。

不安は的中した。領内まで入ってきた義明は久保田城に使者を送り、反対派に謹慎処分を言い渡したのだ。藩主の政策を否定したことや、推進派の梅田を勝手に登城禁止としたことが、処分の理由だった。
こうして推進派が台頭するかに思われた。しかし、騒動はそこで終わらない。城に戻り藩の惨状を目の当たりにした義明は考えを改め、今度は推進派を処断したのである。

先に処分を言い渡されていた反対派は謹慎を解かれ、義明は「銀札政策に失敗し、藩に混乱を招いた」として推進派に厳罰を下した。
これにより、三家老は切腹。他の推進派の者たちにも、打ち首や改易、追放といった処分が下り、40名あまりが罪に問われる事件となった。
この政変を称して、「佐竹騒動」という。その1ヶ月後に銀札は廃止となっている。騒動の原因である以上、当然の処置といえよう。

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