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明智光秀と武田信玄――あるいは「信長にとっての脅威」

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武田信玄(晴信)。言わずと知れた戦国時代の大スターのひとりである。
三英傑やその周辺の人々を主題にした大河ドラマでは必ずと言っていいほど出てきて、恐るべき存在として描写される人物だ。どうしてそうなるかといえば、戦国時代後期において彼の存在がそれだけ大きかったからである。

武田氏は鎌倉時代より続く甲斐源氏の名門だが、戦国時代初期には内紛が激しく、甲斐一国も掌握できていなかった。
しかし信玄の父・信虎の代に統一を回復、信濃への進出を画策し出す。その悲願が達成されたのは信玄の代――というよりも、「父の権力を奪い取った子が、父の野心もそのまま継承した」という方が正しかろう。専制主義的になって家臣団の信頼を失いつつあった信虎を、後継者から外されそうになった信玄が追放する、というクーデターが起きたのだ。

以後、信玄の人生は侵略と裏切りに満ちることになる。
すなわち、西と北に向かっては信濃を侵略し、越後・上杉謙信と利害が対立して5度に渡る「川中島の合戦」を戦った。東と南に向かっては関東の北条氏、東海の今川氏と三国同盟を結んで安全を確保するも、衰退する今川氏を見捨ててむしろ攻撃したので同盟は崩壊し、北条氏ともたびたび争うことになる。
また、嫡男の義信に謀反の疑いが出たのでこれを廃嫡し、四男の勝頼を擁立しなければいけなくなる事態も起きた。このような争いの結果として武田氏の領域は中部から関東にかけて大いに広がったが、それだけ敵を作ったということにも注目するべきだろう。

では、織田氏との関係はどうだったか。
じつは、両者の関係はもともとかなり友好的だった。先述の勝頼も織田氏から妻を迎えていることからそれがわかる。
信濃に手を伸ばす武田と尾張から美濃へ進んだ織田は、少なくとも当初は喧嘩しないことで利を得ていたのである。

状況が変わるのは1571年(元亀2年)だ。信長の比叡山延暦寺焼討ちに対し、もともと比叡山と縁が深かった信玄は信長を非難して比叡山の覚恕を保護し、延暦寺の移転計画まで持っていたとされる。
その翌年には足利義昭の信長包囲網に参加して織田やその同盟者である徳川への攻撃を始めるのだが、しかし動機を比叡山焼討ちにあると見ていいかどうかはわからない。というのも、1571年(元亀2年)には北条氏との和睦が成立し、同盟が復活しているからだ。むしろこのことによって背後が安全になったからこその西への進出ではないか。

信玄の進攻は織田・徳川を大いに揺るがしたが、彼が陣中で病没したので致命的なものにはならなかった。
その死後、家督を継承した勝頼は長年に渡って信長と戦い続けたがついに敗れ、滅亡した。最大の敵を倒して信長が大いに安堵したであろう同年、「本能寺の変」が起きる――。

光秀と信玄の接点は史料上にはちょっと見出せない。武田軍が畿内に迫っていたなら織田軍の一員として美濃あたりで一戦交えることになったかもしれないが、それも起きなかった。
しかし、織田家臣として信玄の脅威は大いに感じていたであろうし、武田の滅亡でその脅威がまったく消え去ったこと、つまり「もはや信長を脅かすものはないのでは?」という予測が「信長を止めるのは自分しかいない」という声になって光秀の背中を押した、ということはあるかもしれない。

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