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【江戸時代のお家騒動】古田騒動 “乗っ取り陰謀阻止”説と藩主“暗君”説

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【時期】1648年(慶安元年)
【舞台】浜田藩
【藩主】古田重恒
【主要人物】古田重恒、古田左京、富島五郎左衛門、山田十右衛門成高

事件の前事情

古田騒動は浜田藩二代藩主・古田重恒の時に起こった事件だ。
重恒は1603年(慶長8年)に古田重勝の長男として誕生し、その後4歳の時に父を亡くしている。しかし重恒がまだ幼かったため、代わりに叔父の重治が家督を一時的に継ぐことになった。この重治が家督をあずかっている間に浜田藩の初代藩主となったため、成長した重恒はその跡を継いで二代藩主となったわけだ。

藩主に就任した重恒は、2度にわたって大坂城の普請を手伝い、1637年(寛永14年)には死没した松江藩主・京極忠高の後を引き継いで、松江城の在番を任されている。
ところが1646年(正保3年)、重恒に嫡子がいないことが原因となり、彼の跡目を巡ってお家騒動が起きた。これが古田騒動と呼ばれるものだ。

「藩主乗っ取りの陰謀を阻止」説

この事件の流れには、いくつかの説がある。まずは、特に有力だと思われる説から見ていくことにする。
事件の始まりは、江戸藩邸に入っていた重恒が中風を患ったことにあった。重恒が病に臥せってしまった上、彼にはまだ世継ぎがいない。このことを家臣たちが不安に思っていた頃、家臣の古田左京は自分の孫・万吉を藩主にしようと企んでいた。

左京は江戸在勤となっていた年寄の加藤治兵衛や黒田作兵衛を味方に取り込み、さらに重恒の寵臣であった富島五郎左衛門をも計画に引きこもうとする。話を聞いた五郎左衛門は困惑するも神文血判をさせられ、陰謀に加担することになってしまった。
ところが、五郎左衛門はこれを「君主暗殺ではないか」と考え、思い直した。そして重恒本人に計画のすべてを打ち明けてしまったのである。
これを聞いた重恒は憤り、陰謀を企てた3人の成敗を命じた。

数日後、五郎左衛門は左京ら3人とともに重恒のもとを訪れた。
3人が重恒の部屋に足を踏み入れた時、五郎左衛門が隙をついてまず左京を斬り倒し、それを合図に控えの間にいた他の者も襲撃に加わったのである。
さらに神文血判書を元に関係者を割り出し、左京の子・左馬之助など親類縁者を含めた18名が処刑された。船で逃げ出した者もいたが、それも全員捕らえられて切腹したという。
こうして陰謀は阻止されたのだが、結局世継ぎがないまま重恒が息を引き取らたため、古田家は改易となってしまった。

藩主が「虚言を信じて処分」した“暗君”説

先の説では重恒が強権を発して家臣を処断しているが、もうひとつの説ではずいぶんと話が違ってくる。重恒が「暗君」として伝えられているのだ。
こちらの話では、五郎左衛門の代わりに山田十右衛門成高という側近が、重恒の寵臣として登場する。成高は14歳の時に重恒に召しだされ、農民の出身であるにもかかわらず1000石を与えられた。

重恒は日頃から病だと言っては部屋にこもってしまうことが多かったのだが、それでも成高だけは唯一面会することを許されていた。そのため、他の家臣は成高からの情報で重恒の状態を察するしかなかったと言われている。
そのような状態で、重恒は「左京らが重恒の命を狙っている」という旨を成高から聞かされた。怒った重恒が屈強の家臣に左京殺害を命じ、成高は「重恒が乱心しているので止めて欲しい」と左京をおびき寄せた。こうして重恒のもとを訪れた左京は、待ち伏せていた家臣によって斬り殺されたという。

成高は事件の後に消息を絶っており、なぜこのような虚言で左京らを排除しようとしたのか、その動機についても推測の域をでない。左京ら重臣が古田家の中で権勢を振るっていたために、重恒の死後を悲観して事件を起こしたとも考えられる。
いずれにせよ、やはり重恒が子のいないままに死去してしまっているので、古田家は改易となったのだった。

この他にも「重恒は自殺した」等の説があるが、やはり真相はわからない。古田騒動のことを伝える史料は多いものの、それぞれに異なる説があるため、今でも謎に包まれた事件となっているのだ。

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