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【江戸時代のお家騒動】筒井騒動 改易のウラには家康による深謀遠慮があった!

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【時期】1608年(慶長13年)
【舞台】伊賀上野藩
【藩主】筒井定次
【主要人物】筒井定次、中坊秀祐

伊賀上野に入封した時から不穏な空気あり

筒井定次は1572年(元亀3年)に筒井順慶の養子となった。
順慶は織田政権下で勢力を伸ばした武将である。定次の父・慈明寺順国は、順慶の父である筒井順昭の弟にあたる。そして定次の母は順慶の姉にあたるため、順慶と定次は従兄弟であると同時に叔父と甥の関係になるのだ。

1584年(天正12年)、自身の死が近いと感じた順慶に家督を譲られ、定次は23歳で筒井家を継いだ。
この年、羽柴秀吉が織田信雄を始めとする反秀吉勢力と戦うため、伊勢に出陣した。いわゆる小牧・長久手の戦いである。この時に定次も参陣し、以後も秀吉に従って武功を立てた。
その結果、1585年(天正13年)には伊賀上野20万石に移封され、羽柴姓を許されている。

新たに上野城を築き、新領国の経営にあたり始めた定次。しかしすべてが順調に進んでいるかのように見えるこの時に、すでに家臣の間の対立は起こり始めていた。
対立が表面化することになったきっかけは、定次入封後に起こった一揆だった。
この時、3千人の一揆勢が獺瀬城という城に立てこもったのだが、これについてどう対処するかで筒井家の家臣が「武力をもって鎮圧する」か「講和による解決をはかる」の二つに割れたのである。

定次は講和を望んだものの、強行派の家臣らによって戦闘となってしまった。
ところが武力では一揆を完全にしずめることができず、結局定次らが介入する形で鎮圧に成功したという。
定次や講和派の面々は、これを知った秀吉に褒美を賜ったということだが、ここで見逃せない要素がある。いくら結果的に定次の意見が正しかったとはいえ、彼が強行派を抑えることができなかったのは事実なのだ。
若い定次に家臣を統制する力がなかったということが、この時点ですでに明確になってしまっているのである。

家臣・中坊秀祐が主君の定次を幕府に讒言

秀吉の死後、1600年(慶長5年)に勃発した関ヶ原の戦いでは、定次は徳川家康に従軍する。
家康は西軍の石田三成が兵を挙げる直前、会津の上杉氏征伐に赴いているが、ここに定次も従っていたのだ。しかしそれにより城主の不在となった上野城は、あっさりと三成方の新庄直頼・直定父子に明け渡されてしまった。
これを知った定次は家康の許可を得て、急いで伊賀へと引き返す。領民も群れを作って新庄父子に対抗し、この助けを借りて定次は上野城を奪還することに成功した。

その間に関ヶ原では決戦が行われ、戦いは家康の東軍勝利で幕を閉じた。
ところが、この関ヶ原の戦いの勝敗が、定次にとっての悲劇の始まりだったのだ。まずは定次改易の経緯を見ていくことにする。

関ヶ原の戦い時、定次は中坊秀祐という家臣と言い争いになっていた。
どうしてそのようなことになったのか、詳細はわからないが、ともかくそれが原因で秀祐は1602年(慶長7年)に筒井家を去ったという。
秀祐が筒井家を去ったのは、彼と旧知の中である大久保長安の勧めだった。長安は家康の側近であり、筒井家から離れた秀祐もそのまま家康の直臣として仕えるようになり、駿府城の建設奉行などを任せられた。

その秀祐が、1608年(慶長13年)に定次の不行跡を家康に訴えた。
この訴えによって筒井家は改易となってしまった。この頃の定次は、城と城下町に大きな被害をもたらした火災や、家臣たちの対立、そして病に侵されていたなどの精神的疲労が積み重なり、酒に溺れていたとも言われている。
訴えの内容は恐らくこのことだろうと推測されている。

秀祐がこのタイミングで定次を訴えた理由については、この頃に秀祐が子の秀政に駿府城建設奉行の役目を譲ろうとしたところ「秀政がまだ筒井家に仕えている」として定次に拒否されたからではないかと考えられている。

筒井家改易の真相は豊臣との繋がりか?

だが、実のところ定次改易の明確な理由はわかっていない。
一説には、定次がキリシタンであったことが家康の知るところとなり、改易に処せられたとも言われている。しかし当時、まだ家康によるバテレン追放令は発令されておらず、キリスト教は厳密に禁止されていたわけではなかった。
仮に定次がキリシタンであったことが改易の理由の一部だったとしても、他にもっと決定的な理由があったと考えられる。

そこで注目されるのが、定次と豊臣家の繋がりだ。
関ヶ原の戦いで勝ったとはいえ、家康にとっての豊臣家の脅威が完全に潰えたわけではなかった。定次は大坂城に登城して秀頼に会い続けていたり、筒井家の家臣には未だに豊臣家を支持する者たちがいたりと、豊臣家を警戒する家康にとって不安材料だったのだ。

また、定次が改易された後に外様大名の藤堂高虎が入れられたことも見逃せない。
高虎は外様でありながらも、家康への忠勤ぶりから厚い信頼を寄せられていた。豊臣系の大名でありながら信頼のおける高虎を、大坂にほど近い伊賀に配置することは、大坂城を攻略するにあたって大変心強い拠点となる。
つまり、そのために邪魔となった定次は、改易に追いやられたということだ。

これらの理由を見ると、定次の改易は家康の天下統一のための犠牲だったのではないかと見ることができる。
重臣の讒言による改易、といういち大名家のお家騒動の裏には、実は巨大な陰謀が渦巻いていたのではないだろうか。

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