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【江戸時代のお家騒動】越丸騒動 “押込め”された暗君が復帰して大混乱の末、改易に

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【時期】1680年(延宝8年)~1695年(元禄8年)
【舞台】丸岡藩
【藩主】本多重益
【主要人物】本多重益、本多織部、太田又八

四代藩主・重益は酒色に溺れ、悪政が始まる

越前丸岡藩の藩政が乱れ始めたのは、4代藩主・重益の頃からだ。
重益が家督を継いだのは1676年(延宝4年)、父であり3代藩主の重昭が亡くなったためだった。重昭は非常に優れた君主だったと謳われ、丸岡藩の藩体制が確立したのも彼の頃だといわれる。

その子である重益は生まれつきの暗愚だった。
昼夜問わず酒と女に溺れ、政治に関心がなかったために、藩政は家老に任せきりだったとされている。それでも、本多十郎左衛門という家老が生きている間は、彼が謹厳実直な人物であったために、藩政はうまく取りまとめられていた。
しかし十郎左衛門の死後、譜代家臣の本多織部や寺田蔵之丞といった者たちが台頭してくると、彼らは藩政を任されているのを良いことに不正や専横を極めていった。
そのような状況であったため藩政は乱れていき、家臣や領民は不満を募らせていったのだ。

これを憂えた家臣の太田又八は、重益の舅にあたる水戸頼元や老中の大久保忠朝らに相談した。
その結果、織部や寺田たちの知行を取り上げ、追放することが決定。1680年(延宝8年)に織部らは、悪政の責任を追及され、藩から追い出された。

押込めされた暗君が復帰し大混乱、ついに幕府の知るところに

この織部ら追放の功績により、又八は本多姓を許されたうえ、1000石の知行を賜った。
彼らのもとで新しい藩政が行われ、藩は次第に平穏を取り戻していく。

ところが、藩主である重益の様子は相変わらずで、又八らは頭を悩ませる。
そこで考えられた策が、重益を病気と称して押込めにし、弟の外記を養子として新藩主に立てようというものだったが、それから間もなくして外記は亡くなってしまったために、遠縁にあたる本多作右衛門の子が貰われた。
この養子縁組みが認められたために、その子は主計と改名し、次期藩主とされる。

その一方で、藩から追放された織部が巻き返しをはかっていた。
自分がいなくなった後の丸岡藩で、又八が政治を動かしていることを知り、何とか彼を追放して再び政権に返り咲こうと目論んでいたのだ。
そこで織部は重益に取り入って、「自分が藩に戻れば重益の押込めも解いてやれる」と申し入れる。さらに寺田と話しあった末、老中であり本多家の親類でもある大久保忠朝に嘆願し、重益の藩政復帰を願い出た。

この織部の働きにより、重益は1693年(元禄6年)に病気が全快したとして藩政に復帰。
織部一派もそれに合わせて戻ってきた。反対に、又八らは織部一派の報復として、牢に入れられてしまったのである。
又八は憤りから食事を断ち、そのまま命を落とした。その後も投獄された者たちは、相次いで餓死したという。
ようやく望みがかなった織部だったが、騒動はここで終わらなかった。藩政に復帰した織部が又八の関係者らを次々と処罰していったために、身の危険を感じて藩を脱出する者が相次いだのである。

この事態に気づいた幕府が、ついに裁定に乗り出すことになる。
織部一派は評定所に呼び出され、老中や諸役人らが立ち会う中、取り調べが行われた。その悪事は明白であり、幕府は織部に領地没収のうえ、切腹という処罰を下した。

また藩主の重益も評定所に呼び出された。
藩政を乱れさせたこと、又八ら忠臣を死に至らしめたこと、多くの脱藩者が出たことなどを罪に問われ、重益は改易となる。また養子となった主計にも、大名家預かりの処分が下った。
そのほか、織部に加担した者たちにもそれぞれ処罰が下され、ようやく越丸騒動はおさまった。

その後、丸岡藩には新しい藩主として、越後糸魚川から有馬清純が入封している。

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