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【江戸時代のお家騒動】米沢騒動 幕閣重鎮の後ろ盾でお家断絶を回避する

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【時期】1664年(寛文4年)
【舞台】米沢藩
【藩主】上杉綱勝、上杉綱憲
【主要人物】保科正之、吉良義央

3代藩主・綱勝が吉良義央の家で急死する

米沢藩の3代藩主は上杉綱勝である。綱勝は父・定勝が早逝したため、わずか8歳で家督を継ぎ、藩主となった。
また網勝は18歳で国元に入ったものの、能楽に熱中したり、狩りに6000人もの家臣を使ったりと、藩財政を顧みない振る舞いが目立った。
米沢藩は綱勝が藩主に就任して以来、領内が大火に見舞われたり江戸城の石垣普請を命じられたりと、藩財政を逼迫させる出来事が続いていた。その上で綱勝がこのような振る舞いをしたために、財政は苦しくなる一方だったのである。

ところがこの時期に、のちの上杉家を救うような出来事も起きている。綱勝の結婚だ。
綱勝は、米沢藩に入る前年の1654年(承応3年)に、会津藩主・保科正之の娘である媛姫(はるひめ)を娶った。彼女は1658年(万治元年)に亡くなってしまうが、この結婚によってできた保科家との繋がりが、上杉家改易の危機において重要なものとなってくるのだ。

1664年(寛文4年)、綱勝は江戸城に登城した後に義弟にあたる吉良義央の家に寄り、茶を飲んでから帰った。
するとその夜、綱勝は酷い腹痛に見舞われ、その日の夜だけでも7、8回も嘔吐を繰り返した。そのまま約1週間、綱勝は苦しみ続けた挙げ句、息絶えてしまったのである。
死因については、吉良邸に寄って茶を飲んだという事実から、義央が綱勝を毒殺したのではないかとも言われているが、「穿孔性胃潰瘍」の症状と一致するということで、病気の線が濃いと思われる。

綱勝の義父・保科正之が後継者問題に奔走する

綱勝の死によって浮上したのが、後継者問題だ。
正室・媛姫は、前述の通り結婚してからわずか4年で亡くなっており、2人の間に子どもはできなかった。その後、綱勝は継室として大納言の四辻公理の娘を妾っているが、彼女との間にも子はいなかった。

このような跡継ぎのいない大名のために、末期養子と呼ばれる制度がある。子のない当主が死に瀕した時に急に養子縁組みを申し出ても、跡継ぎを残すためということで例外的に認められる制度のことだ。
当初は幕府によって禁止されていた制度だが、そのために断絶する家が少なくなかったため、許可されるようになったのである。

ところが綱勝の場合は、この末期養子すら行えないような、あまりに急すぎる死だった。そのため、断絶を免れない事態に陥ってしまっていたのだ。
ここで助け舟を出したのが、綱勝の義父にあたる保科正之であった。彼は、綱勝の妹・参姫と吉良義央との間に生まれた子を綱勝の養子とし、彼に上杉家を継がせてもらえるよう、幕府に頼み込んだのだ。

正之は3代将軍・徳川家光の腹違いの弟で、中央政権に対して十分な発言力を持っていた。
上杉家の断絶を回避するために正之は奔走し、江戸城と藩邸を行き来しながら、国元の方にも動揺を与えないために「相続の件は大文夫だ」と使者を送って伝えるなどの配慮を行っている。
このような正之の働きのおかげで、所領を半分にするという条件で義央の子が藩主を引き継ぐことが正式に決定された。ここに米沢藩4代藩主・上杉綱憲が誕生し、上杉家は断絶を免れたのだった。

上杉家が窮地を脱することができた理由として、正之の働きがあったのはもちろんのこと、吉良家が家格の高い家柄だったことも挙げられる。
幕府内でも声望の高かった吉良家は、上杉家にとって心強い後ろ盾となっていた。
保科家と吉良家、この2つの家の助けを借りてお家断絶を免れることができたのは、上杉家にとってまさに幸運だったといえる。それはまた、幕府にとってもこのような名家に対してははばかる必要があった、ということの証拠でもあるだろう。

こうして上杉家は断絶を回避できた。
しかしその後、米沢騒動の主要人物の1人である吉良義央が殺害されるという事件が起きている。
1703年(元禄15年)に起きた赤穂事件だ。浄瑠璃・歌舞伎作者として有名な近松門左衛門の『碁盤太平記』、浄瑠璃作者の紀海音の『鬼鹿毛無佐志鐙』など、多数の文学や演劇で題材として取り上げられている事件である。
竹田出雲・並木千柳・三好松洛の合作による浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が人気を博したために、この赤穂事件を題材とした作品は「忠臣蔵」の通称で呼ばれることも多い。

騒動の経緯としてはまず、1701年(元禄14年)に江戸城内で、勅使接待役の浅野内匠頭長矩が義央を斬りつけた。
この時、義央は一命をとりとめ、逆に長矩が切腹、改易の処分を受けた。その後、浅野家の遺臣たちが主君の無念を晴らすために吉良邸に討ち入り、義央を討ち取ったという流れだ。
その後、吉良家は討ち入り事件の時の対処に問題があったとして改易。断絶の危機を免れた上杉家との差を考えると、なんとも皮肉なものに思える。

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