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【江戸時代のお家騒動】仙石騒動 老中首座を狙う水野忠邦が野望実現に利用した事件

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【時期】1835年(天保6年)
【舞台】出石藩
【藩主】仙石久利、仙石政美
【主要人物】仙石左京、仙石造酒、仙石主計、松平康任、水野忠邦、脇坂安董

主家の血を引く家臣、仙石式部家と仙石主計家の対立

この仙石騒動は出石藩主・仙石家で起きた権力争いだが、この騒動の特徴は老中・水野忠邦たちの陰謀によって事件が裁かれたところにある。つまり、大名家で起きた騒動が幕府内での権力争いに利用されたのだ。
まず、仙石家の家系に触れておこう。出石藩仙石家の祖となったのは、豊臣秀吉に仕えていた秀久だ。
関ヶ原の戦いの折、どちらが敗れても家が存続するようにと、自身と3男の忠政は東軍に、次男の秀範を西軍にと振り分けた。この戦いで東軍が勝利したために、以後は徳川家に従うこととなったのである。

さて、ここで気になるのが秀久の長男のことだ。彼はなぜ東軍にも西軍にも振り分けられていないのだろうか。
じつは長男の久忠は、若くして失明していたために、戦場には出ていなかったのだ。そのために本家の家督も、秀久とともに東軍に属した忠政へと譲られている。

しかしこの久忠の血筋から、本家の家臣となる家が分立している。分立した家はそれぞれ「仙石式部家」と「仙石主計家」と呼ばれ、久忠の孫にあたる勘解由政治が式部家を、その弟の主計政忠が主計家をそれぞれ与えられたのだ。
この2つの家は、仙石家の家臣という立場でありながらも、本家の血を引いていたということになる。

そしてのちにこの両家の間に起こる対立が、主家をも巻き込んだ騒動へと発展していくのである。
仙石造酒(みき)は主計家の生まれであり、藩の財政を司る勝手方を任されていた。
この役目は造酒の祖父の代から受け継がれてきたものだが、造酒の代になって藩の財政状況は悪化。江戸藩邸が焼け落ちたり、藩主が代替わりしたためその経費が必要だったりと、支出がかさんだためであった。

このような状況に、造酒は財政の立て直しを行わなければならなかったのである。
造酒はまず倹約令を発し、不換紙幣とされていた切手札を通用させた。しかし造酒のこれらの政策は、せいぜい一時しのぎにしかならないものだった。
そのためうまくいかない造酒の財政改革を、手ぬるいと批判する者が現れる。式部家の仙石左京である。左京は自らが造酒に代わって改革を行うため、彼を勝手方から解任し、自分がその役についたのだった。

左京はまず、家臣から現米を借り上げるという上米令を実施したり、藩札の準備金として大坂の商人から5万両の貸し付けを受けたりした。
そして1822年(文政5年)には重商主義に視点を置き、商業の活性化を図る政策をいくつか打ち出している。
具体的には、問屋株仲間を再編成させて、単独で商売を行わせないようにした。これによって、株仲間に運上金を納めさせるのが目的であった。

またそれまで持ち込みを行っていた豊岡藩の魚市場の使用を禁じ、領内につくった新しい魚市場での売り買いを定めた。
それに合わせて、豊岡藩の魚行商人らの出石藩への立ち入りも禁止されてしまう。そして出石藩の名産である生糸に対しても、産物会所でこれを統制し、専売が行えるようにしている。
このように左京は、造酒が行っていた質素倹約を主軸とする政策とは違う路線で藩の立て直しを図っていった。

ところが、このような急な方向転換には、内外から反発の声が上がった。
加えて、政策の持続が困難となるような事件も起きた。
まず、1823年(文政6年)の出石大火がそれにあたる。この大火によって多くの商人町が焼けてしまい、株仲間の形成が困難となったために、商人の独立を認めざるを得なくなったのだ。

また魚市場の政策転換によって打撃を受けた豊岡藩の魚行商人たちが、早魃を理由に川をせき止め、出石への漁船の運航を妨げてしまった。
これにより出石藩の魚市場を維持することが困難になっただけでなく、米の輸送にも問題が生じたため、やむをえず出石藩は魚行商人らの領内での行商を認めることになってしまった。

このような改革の頓挫は、反左京派の者たちを勢いづける結果となる。
その後に行われた人事異動において、左京は勝手方を解任。そして代わりに、造酒が再び勝手方に就任したのだった。こうして、出石藩の改革を巡る対立構図が明確なものとなっていったのである。

後継者問題が噴出。仙石左京が藩乗っ取りを企む?

1824年(文政7年)、六代藩主の仙石政美が亡くなった。
政美はもともと病弱だったこともありなかなか子どもができず、1823年(文政6年)にようやく生まれた男子も、生後僅か3ヶ月で病死していた。そのため政美が亡くなった時、跡を継ぐ者がおらず、仙石家はお家断絶の危機にさらされてしまう。

これを受けて、江戸藩邸で話し合いが行われることになった。この時に左京も呼び出されたのだが、彼は1人で江戸に赴いてきたわけではなかった。自分の子である小太郎を連れていたのである。
このことは、再び藩内に波風を立てた。なぜなら、世継ぎを決める際には継承する人間が江戸にいなければならないという決まりがある。
つまり、左京が自分の子を世継ぎにし、主家を乗っ取ろうとしているのではないかという疑惑がかけられることとなったのだ。

左京がどのような意図で小太郎を伴って江戸に赴いたのかはわからない。
だがこの行動は、造酒らを刺激することとなった。造酒らはすぐに根回しをして、小太郎が後継者にならないように牽制。その結果、政美の末の弟である久利が7代藩主となることが決定したのである。
幕府もそれを受理し、仙石家はお家断絶の危機の回避に成功した。

左京の本家乗っ取り疑惑の件については、久利の後見人となった5代藩主・久道も不快に感じていたようだ。
そのため造酒はこれを機に、左京の権力を消し去ろうと画策。左京の行った数々の改革を一旦すべて元の状態に戻し、その上で1825年(文政8年)に左京の大老職を解任とした。
ここにきて、造酒は再び政治の実権を手中におさめたのである。

主計家一門の失脚により左京が藩政に復帰

造酒は再び倹約を基本にした改革を進めた。財政難のために再び上げ米令を発さなければならなかったが、それでも左京の時よりはその割合が緩められていたという。
こうして造酒の改革はようやく軌道に乗るかと思われたが、翌年になって彼はいきなり年寄役を罷免されることになった。原因は身内同士の喧嘩で、「同役の不和」として造酒を含めた3年寄が解職という処分を受けた。
このショックのためか、造酒はそれから間もなくして亡くなっている。そしてその死により、左京が再び藩政の中枢に復帰することとなったのだ。

この造酒たちの失脚は、主計家の者たちが一気に執政陣から叩き出される結果となった。
しかし、そんな主計家の者たちの中で唯一処分を受けず、政権にとどまった者がいた。造酒の子の仙石主計である。
主計は勝手方を務めており、左京の復帰後も引き続きその役職に就くことになった。主計は下落していた銀札相場の回復に力を入れ、旧銀札の回収と新銀札の普及に奔走する。
だがそれでも藩財政は回復せず、商人たちも財政への不安を覚えて藩への融資を断ってくるという状況だった。

このようなタイミングで、主計も父と同様に解職を言い渡される。資金調達がうまくいかないことの責任をとって辞任したようだが、彼の失脚を狙っていた左京がそれに合わせて罷免したというのが正しいようだ。
こうして主計家の者たちは、政権からいなくなった。自分に反対する勢力がいなくなり、左京はまず1827年(文政10年)に面扶持を実施。面扶持というのは、家臣の家族1人あたりに対し一律で現米1石8斗を支給するものの、残りはすべて借り上げるという上げ米制のことだ。

その後も1829年(文政12年)に年貢の徴収を安定させるために、定免制を発令。
これは、不作などを理由にして農民が年貢を減らしてはしいと要求してくるのを防ぐためだ。年貢は過去の統計から平均したものが算出され、たとえ不作であってもそれだけは絶対に納めなければならないと規定したのである。
さらに1707年(宝永4年)に廃止された、店に対して課せられる店役運上という租税を復活。諸商売物値段方支配と呼ばれる役職を設置し、物価の抑制を狙ったりもした。
左京は、商業を統制することで税金による収入を増やそうとしたのだ。しかし左京のこのような強引な改革に、農民たちは不満を募らせた。そのため、1830年(天保元年)には百姓一揆が何度も勃発している。

水野忠邦は老中首座・松平康任追い落としに仙石騒動を利用する

1831年(天保2年)、左京は実子の小太郎の嫁に、老中・松平康任の姪を迎えた。
ところがこのような家格の高い家との縁組みは、反左京派を刺激することになる。左京が式部家の勢力を伸ばし、本家を乗っ取ろうとしているのではないかという疑惑も生まれた。

翌年の正月になり、主計を含む反左京派の者たちは、藩主・久利の後見人である久道に左京の罷免を訴えた。
左京が本家乗っ取りを企んでいる、倹約令を敷きながら自分は贅沢をしている、藩政を乱しているなど、彼らは次々に左京の罪状を挙げたのである。
ところが久道はこの訴えを「謀りだ」として退け、逆に主計らに減知と蟄居を命じた。さらにこの訴えを主導したとみられる河野瀬兵衛という者は、藩を追放されることになった。仙石騒動は、このあたりから本格的に展開していくことになる。

追放された河野はその後、江戸に出た。
ここで前藩主・政美の側近を務めていた神谷転という者を味方につける。神谷は1823年(文政6年)政美によって免職されているが、これを左京の陰謀だと信じていたために、河野に力を貸し左京への復讐を果たそうとしたのだった。
河野と神谷は、再び左京の主家乗っとり疑惑を訴えるため上書を作成。しかしこの動きは出石藩にも知られており、河野は密かに藩から送られてきた役人によって、身柄を拘束されてしまう。河野は翌年、内紛を煽ったという罪で処刑される。

また神谷も河野が処刑されたその年に捕らえられたが、彼は虚無僧となっていた。
そのため寺社奉行が、河野が生前に作成した上書を預かり、これを老中に提出して伺いを立てた。ここで幕府は、この騒動の中心となった左京が、老中首座である松平康任と縁戚関係にあることを知ったのだ。

松平が事件の当事者と関係あるため、将軍・徳川家斉は彼を吟味役から外し、老中の水野忠邦と寺社奉行の脇坂安董の2人に、内紛の吟味にあたらせた。
この水野というのが、実は老中首座を狙っており、松平を失脚させる機会を窺っていた。仙石騒動は、水野にとってまたとないチャンスだったわけである。

また脇坂についても、同じことがいえた。
外様大名である脇坂は、寺社奉行以上に昇進することは不可能とされていた。しかしこの事件の成り行き次第では、出世が望めるかもしれない。水野と脇坂の思惑は一致した。

水野らはこの内紛を、主家乗っ取りを企む左京が起こしたものとした。
左京は脇坂邸において尋間を受けたものの、それは水野の作った筋書きにそって進められることとなる。つまり、河野たちの訴えを無理やり立証することとなったのだ。

裁きの結果、左京には獄門が言い渡され、左京派の者達にも追放や遠島といった処分が下った。そして水野の目論見通り、松平は蟄居処分を受けることになったのである。
これによって、忠邦は念願の老中首座に任じられた。また脇坂も老中格に昇進し、その後さらに老中となっている。

一方、藩主の久利も減封となった上、閉門を申し渡されている。
減封に伴い、領地に見合った新しい体制を立てなければならなくなった上に、左京の改革によって好転しかけていた財政も再び苦しくなってしまった。
水野らの幕府の主導権を巡る陰謀は、結果的に左京や主計ら家臣同士の問題だけでなく、仙石家すべてを巻き込んだものとなったのである。

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