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【江戸時代のお家騒動】津和野騒動 藩主直臣VS尼子旧臣の争い

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【時期】1635年(寛永12年)
【舞台】津和野藩
【藩主】亀井茲政
【主要人物】多胡真清、多胡勘解由

家康の孫娘を母に持つ3歳の幼き藩主の誕生

1617年(元和3年)、因幡鹿野城主であった亀井政矩が、4万3千石の津和野藩に移封された。
津和野藩は、関ヶ原の戦いで戦功を上げた坂崎直盛が成立させた藩だったが、わずか一代で坂崎家が断絶となってしまったため、そこに政矩が入ることになったのだ。

それからわずか2年後の1619年(元和5年)、政矩は落馬により命を落としてしまう。
政矩には、大力という3歳の子がいた。この子が次期藩主の候補者となったのだが、ここでひとつ問題があった。当時の幕府の制度では、家督を継ぐことができるのは15歳からと定められていたのである。
坂崎家に続き、早くもお家断絶の危機に見舞われてしまったのだ。

ところが、大力の母である光明院はあきらめなかった。なんと3歳の大力を「15歳である」と偽って幕府に届け出て、しかもこれが許されたのである。
このような無茶な届け出が許されたのは、光明院が徳川家康の孫娘であることが大きかったと思われる。
かくして大力は、光明院の父である松平康重の後見を条件に、津和野藩主となることを認められた。しかし後継者問題が一件落着したと思われた亀井家の中で、今度は重臣同士の対立という新たな問題が巻き起こる。

亀井家の重臣は、前藩主・政矩の頃より2つのグループに分かれていた。
もともと山陰・山陽地方で勢力を誇っていた尼子氏に仕えていた多胡勘解由らのグループと、政矩とともに津和野藩に入ってきた執政・多胡真清らのグループだ。
勘解由らは尼子氏の譜代大名として活躍していた者たちで、主家が滅んだ後もその再興を願って活動してきた。大力の祖父にあたる亀井茲矩もそれに協力していた人物で、彼が豊臣氏から信頼を受けていた時代には、尼子氏の再興の望みもあった。

しかし時代が移り変わり豊臣氏の力も潰えると、主家の再興は難しくなり、勘解由らも時代の流れに従い亀井家の家臣として仕えていくことが求められたのである。
そのような状況にあって、新参者でありながら権力を手にしている真清と勘解由らの間に対立の構図が生まれるのは、ごく自然な流れといえた。
そしてその対立の中で、勘解由たち尼子氏の旧臣は、結束を強めていったのである。

幕府の対応、間に合わず

亀井家に漂う不穏な空気を、幕府は早くから感じ取っていたようだ。
幕府は二つのグループを結束させることが必要だと感じ、1622年(元和8年)に亀井家の重臣らに「協力して藩主を補佐する」という旨の起請文を提出させている。さらに人質という形で、12人の重臣の子を1年ごとに交代する形で出府させている。

ところが、それでも亀井家重臣の抗争に歯止めをかけることはできなかった。
大力が19歳になった1635年(寛永12年)には、勘解由ら6人が真清の専横や藩主軽視などを十一ヶ条に挙げた訴状を、亀井家一門宛てに提出したのである。しかし一門衆がこれについて真清らに真相を尋ねたところ、彼らは訴状の内容について上手に弁明することができた。そのため、今度は双方が直接対決をすることとなる。

審問は松平康重らの立ち会いのもと、数回にわたって開かれた。その結果、真清らの明快な返答に対し、勘解由たちは全く申し開きができなかったのである。
これにより、勘解由たちの処罰が決定された。訴状に連署した勘解由ら6人のうち、4人が切腹。勘解由は切腹は免れたものの追放処分となり、そのほか彼らに連座する形で80人近くが追放されることとなった。

この事件は、当然ながら幕府にも知られるところとなった。
しかし幕府はそれ以上の介入は行わなかったとされる。事前にかけた歯止めは利かなかったものの、内紛に決着がついたために、これ以上追及する必要もないと判断したのだろう。

 

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