【時期】1618年(元和4年)
【舞台】熊本藩
【藩主】加藤忠広
【主要人物】加藤美作守、加藤丹後、加藤右馬允正方
幼い主君では家中を押さえきれず
幼少期より豊臣秀吉に仕え、その子息・秀頼の後見人をも務めた加藤清正。
関ヶ原の戦いでは東軍につき、肥後一国を賜った清正だったが、1611年(慶長16年)に秀頼と徳川家康の二条城会見を実現させた後、その帰国途中に亡くなった。
清正の跡を継ぐことになったのは、子の虎藤である。
しかし、虎藤はこの時まだ11歳。しかも相続人としての将軍への謁見をまだ果たしていないなどの不安材料があり、幕府が家督相続を認めない可能性もあった。そこで加藤家の重臣らが駿府まで赴き、虎藤の家督相続を認めて欲しいと嘆願したのである。
これに対し大御所・徳川家康は、加藤家の重臣に誓約書を書かせるなどの条件を提示した上で、虎藤の相続を認めたのだった。こうして襲封した虎藤は、将軍・秀忠の一字を賜って忠広と改名する。
しかしまだ幼い忠広は、家臣たちをうまく統制することができなかった。そして起こったのが、牛方馬方騒動と呼ばれる重臣同士の政権争いである。
牛方と馬方に分かれた重臣同士の政権争い
事件を巻き起こしたのは、加藤美作守・丹後父子らを中心とした牛方と呼ばれる勢力、そして加藤右馬允正方を中心とした馬方と呼ばれる勢力だ。
この政権争いは、清正の頃より政治顧間を務める下津棒庵という馬方の者によって、「牛方の者たちが好き勝手に振る舞っている」という形で幕府に報告されたのだった。
そのため1618年(元和4年)に幕府は関係者を江戸に召集し、裁定を行う。
ここで注目されたのは、美作守が大坂の陣で豊臣方に内通していたという嫌疑だった。密かに大坂城に援兵を送ろうとしたり、城内と連絡をとろうとしていたというのだ。
この訴状の内容が将軍・秀忠の勘気にふれ、牛方は敗訴。加藤父子をはじめとする牛方の者らは、多くが流罪に処せられた。
しかし、藩主である忠広はこの事件に関して罪を問われなかった。
それは忠広がまだ実質政治に関わっていなかったことに加え、彼の正室が秀忠の養女であったことも大きい。
その後、右馬允正方や棒庵らが忠広を支える形で政権の中心となっていったが、1632年(寛永9年)に加藤家は突然改易となってしまう。
理由については、加藤家が豊臣家恩顧の大名だったから等、諸説あってはっきりとしていない。
この牛方馬方騒動によって、これまで加藤家取り潰しの機会を窺っていた幕府が「このようなお家騒動が起こるようでは、加藤家も大したことはない」と判断し、折を見て処分を実行に移そうとしたのではないか、とも見られている。