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明智光秀とたま(ガラシャ)――あるいは父譲りの激動の運命

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細川ガラシャ(たま、玉)は三つの意味でよく知られた人である。彼女は明智光秀の娘であり、細川忠興の妻であり、そしてキリシタンであった。この三つの要素がガラシャを激動の運命へ投げ込むことになる。

ガラシャは明智光秀の次女(三女とも)で、玉あるいは玉子としてこの世に生まれる。
1579年(天正7年)に彼女が光秀の主君である信長の斡旋によって細川藤孝の嫡男・忠興と結婚することになったのは、光秀と藤孝の繋がりを思えば当然のことであったろう。両者はともに元幕臣であり、織田家の同僚としても付き合いが深い。
この婚姻は家臣同士の結束を強める意味で信長にも役立つものであったわけだ。

忠興は結婚の翌年に丹後宮津に領地を与えられたので、二人の夫婦生活がこの地で始まった。
ところが1582年(天正10年)、大事件が起きる。ガラシャの父、光秀が「本能寺の変」で信長を討ったのだ。藤孝・忠興親子はガラシャを通して親戚付き合いをしてきた光秀に味方するかと思いきや、中国地方から戻ってきた羽柴秀吉につき、光秀を討った。

こうなってしまうと、忠興とガラシャの関係も以前の通りとはいかない。忠興は彼女を丹後の味土野へ幽閉してしまう。
当時の結婚は家と家の関係で行うものであり、相手の家が敵対関係になったり、大きな不名誉を背負ったりすれば離縁も当然であった。
ところが、忠興とガラシャは復縁する。
新たな天下人になった秀吉の赦しがあったためだと伝わるが、そもそも忠興は彼女を心から愛していたとされる(ガラシャに見惚れた庭師の首を斬った話は特に有名だ)から、その執着のおかげもあったろう。

大坂の細川屋敷で暮らすようになったガラシャに運命的な出会いが訪れる。
当時日本へ入ってきた新しい教え――キリスト教との邂逅である。と言っても彼女は大名屋敷の奥で暮らす人だから、宣教師と直接出会ったわけではない。
忠興の同僚にキリシタン大名の高山右近がいて、忠興が彼から聞いた話を妻に伝えたところ、その興味を引いたのである。あるいは、二年間の幽閉で空いた心の隙間を、新しい神に求めたのかもしれない。

やがてガラシャは夫が出陣で屋敷を留守にしている間に大坂の教会を訪れるようになり、ついに洗礼を受けてキリスト教徒になった。「ガラシャ」はこの時に与えられた霊名(洗礼名)である。
以後、彼女は自らの信仰を深めるだけでなくキリスト教関連書物の翻訳や教会への支援を熱心を行うようになる。

しかし、大名の妻という立場はガラシャを放っておいてはくれなかった。
徳川家康と石田三成が争った「関ヶ原の戦い」において、忠興は家康の東軍に着いたが、ガラシャは大坂にいた。そして、石田方によって人質に取られそうになるや、彼女は家臣に命じて自らを殺害させたのである。
人質として夫の邪魔になるのは避けたいが、かといってキリシタンは自決もできぬ。故に選んだ最期だった。

彼女の壮絶な生と死は日本ではもちろん、ヨーロッパでも伝説になった。
その死が殉教として認められただけでなく、17世紀の終わり頃に神聖ローマ帝国で彼女をモデルにしたオペラが演じられたのである。この演目はハプスブルクの女帝マリア・テレジア、フランス王妃マリー・アントワネット、オーストリア=ハンガリーのエリザベート皇后といった人々に愛されたとされる。

振り返ってみれば、彼女が大逆人・光秀の子として生まれなければ、このような激動の人生を送ることはまずなかったはずだ。
有力武家の娘として生まれたなら家と家をつなげるための道具として生涯を送るのが普通である。そんな運命を娘に与えてしまった父・光秀は何を思ったか。死者に問うことはできない。

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