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【江戸時代のお家騒動】水野騒動 抵抗勢力の重臣に“押込められた”若き名君の悲劇

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【時期】1749年(寛延2年)
【舞台】岡崎藩
【藩主】水野忠辰
【主要人物】水野忠辰

名臣・水野忠之の血を受け継ぐ少壮の君主と譜代家臣らの対立

1737年(元文2年)に家督を継いだ岡崎藩主・水野忠辰(ただとき)は、当時まだ16歳だった。
忠辰の祖父は8代将軍・徳川吉宗に仕えていた水野忠之であり、彼は江戸幕府3大改革のひとつに数えられる享保の改革の前半期を指導した人物だ。忠之に可愛がられていた忠辰は、その改革にまつわる苦労話もよく聞かされていたらしく、その影響から藩政改革に意欲的だった。
しかし重臣たちは忠辰に幕閣としての活躍を望んでいたようで、その気持ちのズレがやがて両者の溝を深くしていくことになる。

忠辰が藩主に就任した時、岡崎藩は相次ぐ災害などが原因で財政難に陥っていた。
そこで忠辰は財政改革を行い、自ら粗末な服を着て食費も制限するという手本を示し、倹約を徹底させるなどの策をとった。これにより岡崎藩は5、6年の間に5万両を蓄えることに成功している。
また生活が苦しい藩士に対しては借財の肩代わりを行い、俸禄を前借りすることにも許可を出した。

これと並行して忠辰が取り組んだのが、藩権力の集中である。
水野家は幕閣として活躍する藩主が多く、藩政は譜代の家臣らによって執り行われていた。そのため忠辰は藩主の権威を高めるべく、有能な人材の登用や勤務成績に応じた報酬など、譜代の家臣らに権力を集中しすぎないような策を取り入れたのである。

これまで専横を極めていた譜代の家臣らが、このような忠辰の方針に危機感を抱いた。
もともと忠辰が積極的に藩政に関わることを快く思っていなかったこともあり、次第に両者の衝突が多くなっていく。忠辰は反発する家臣らに対して厳しい態度で挑み、罰として隠居を申し付けたものの、それは同時に改革の頓挫を意味していた。
心の内でどう思っていたにせよ、それまでの忠辰の藩政改革を支えていたのは、譜代の家臣たちだったからだ。

藩内闘争に敗北し、座敷牢に押込められる

そして1749年(寛延2年)の元日、忠辰を追い込む出来事が起きる。
この日、岡崎城に挨拶に来なければならないはずの重臣らが、誰一人として来なかったのである。さらに翌日になっても出仕する者はなく、政務が滞ってしまう。
困り果てた忠辰は、蟄居を命じた者たちにも登城するよう要請したが、これも断られてしまった。ついに忠辰は重臣たちに屈することになり、彼らの政権復帰と忠辰の側近らの処罰が行われたのだった。

藩政改革も失敗し、譜代の家臣らから実権を取り戻すことにも失敗した忠辰は、すさんだ生活を送るようになってしまった。
これは、重臣たちにとつてはむしろチャンスだったといえる。忠辰の放蕩を理由に、彼を退けることができるのだ。

1751年(宝暦元年)、忠辰は亡くなった母・順性院の墓参りに行くため表座敷に出た時、突然座敷牢に押し込められた。そして重臣らは、幕府に「忠辰は乱心している」と届け出て、忠辰の養子として遠縁の水野忠任を迎え、彼に家督を相続させてしまったのである。
忠辰はその後も幽閉されたまま、その年のうちに息を引き取った。31歳の若さだった。

意欲的に取り組んだ藩政改革を成し遂げられず、失意のままにこの世を去った忠辰。
その失脚の根源となったのが、譜代の家臣たちによる保身だったと考えると、忠辰は悲劇の名君だったと言わざるを得ないだろう。

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