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【江戸時代のお家騒動】お由羅騒動 幕末薩摩の後継者争いに幕府も介入

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【時期】1850年(嘉永3年)
【舞台】薩摩藩
【藩主】島津斉興
【主要人物】島津斉興、島津斉彬、お由羅の方、調所広郷

藩財政を背景に藩主・斉興と長男・斉彬の路線対立

このお由羅騒動は、近思録崩れの後に薩摩藩で起こった騒動である。
藩主・島津斉興の側室であるお由羅の方が、自らの子を後継者にしようと画策したために起きた事件だ。しかしその背景には、近思録崩れの頃から揺れていた薩摩藩の財政事情などがあり、単純に「出世欲に駆られた側室が起こした後継者争い」と片付けることはできない事件となっている。

25代目当主・重豪の開化政策によって莫大な負債を抱えることになった薩摩藩。
これを立て直すために財政改革を担うことになったのが、調所広郷(ずしょひろさと)という側用人だった。調所はまず250年にわたる無利子の長期返済を決定した上で、椎茸や鰹節、硫黄やタバコなどの国産品の改良や販売の拡張に力を入れ、琉球との密貿易の発展などで収入の増加を図る。

また支出面での緊縮も視野に入れ、建物の修築費用の合理化や、上方との間を行き来する貨物船を自国のものに切り替えるなど、あらゆる手段を講じている。
重豪の死後も、調所は斉興のもとで改革を進めていった。その結果、薩摩藩は負債の返済を無事に終えるどころか、莫大な貯蓄を手にするに至ったのである。

このように財政改革は見事に成功をおさめたが、この改革も終わりに近づいた1844年(弘化元年)頃から、また別の問題が持ち上がり始めた。
薩摩藩が主な収入源としていた琉球に、アジア諸国の植民地化を視野にいれる西欧の船が頻繁に来航し、通商を強く求めてくるようになったのである。

こうした外交問題について、斉興や調所は西洋技術の受け入れなどの体制をとったものの、それは一時しのぎの対策でしかなかった。そんな彼らのやり方に異を唱えたのが、斉興の長男・斉彬(なりあきら)であった。
斉彬は祖父にあたる重豪と非常に似た考えをしており、つまり開化政策に関心を持っていたのだ。この頃、斉興はすでに50歳を超えていたが、家督をなかなか斉彬に譲らなかったのは、彼のそのような考えを危惧していたからだった。
ようやく立て直した藩財政が、また重豪の時のように逼迫するようなことがあってはならないと考えていたのである。

しかしながら、斉彬は幼少の頃からその名を知られるほど賢明であったため、彼を早く藩主にと望む声も多かった。

世子・忠教擁立を企む側室のお由羅一派

このような状況の中で浮上したのが、斉興の後継者問題だ。
斉興には、側室・お由羅の方との間に忠教(久光)という子がいた。斉彬の藩主就任を危ぶむ斉興と調所らは、お由羅の方と結びついて忠教を藩主にしようと画策するようになったのである。

その策というのは、斉彬の藩主就任をできるだけ遅らせた上に、忠教にすぐにその座を譲らせようというものだった。
本来ならば、斉彬の跡を継ぐのは彼の子となる。しかし斉彬の男子らはすでに幼くして亡くなっていたため、彼には跡継ぎとなる子がいなかったのだ。
こうして斉彬を推す一派と忠教を推す一派が、跡継ぎを巡って対立するようになったのだった。

しかしこの後継者問題がまだ片付かない1848年(嘉永元年)、調所が突然この世を去った。琉球との密貿易についての責任を負わされ、自害に追い込まれたのである。これはもちろん、斉彬派の者たちによる謀略だった。
それでも、依然として忠教派の者たちは勢力を保ち続けていた。そこで斉彬派は、ついにお由羅の方や忠教を含め、敵対する一派の者たちを暗殺しようという過激な行動に出てしまう。

だが、この暗殺計画がどこからか漏れたために、首謀者とみられる町奉行物頭の近藤隆左衛門、町奉行鉄炮奉行の山田清安、船奉行の高崎温恭ら6名が評定所に出頭するよう命じられた。
そしてこの6名にはすぐに死罪が言い渡され、他の斉彬派の者たちにも処罰が下された。その結果、40数名が死罪や遠島などに処せられる大事件となったのだ。

その1年後、幕府から斉興に隠居するよう命が下る。
この騒動は単に藩内だけの事件としてはおさまらず、琉球との密貿易などの件もあって、幕府が問題視していたところでもあった。さらにその密貿易の件で調所が自殺に追い込まれた件については、斉彬を支持する老中・阿部正弘が絡んでいたのだ。
そのほか宇和島藩主で斉彬の親友でもある伊達宗城らも阿部に協力し、ついに斉興を隠居させ、斉彬の襲封を実現させたのだった。
こうしてお由羅騒動は、最終的には幕府の力を得る形で終結に至ったのである。

この事件は、直木三十五の小説『南国太平記』で取り扱われている。「大阪毎日新聞」と「東京日日新聞」で1930年(昭和5年)6月より連載をはじめ、のちに単行本化された。
これを原作とした映画も多数製作されており、大衆文学の代表作といわれる。

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