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【江戸時代のお家騒動】酒井忠徳による財政改革 豪商・本間光丘の起用

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【時期】1767年(明和4年)~1781年(天明元年)
【舞台】庄内藩
【藩主】酒井忠徳
【主要人物】酒井忠徳、本間光丘

度重なる凶作などにより藩財政は危機的状況

お家騒動というほどの事件にはならなかったが、藩政改革が内部対立に結びついたケースをもうひとつ紹介する。
こちらの主役は本間光丘という1人の商人だ。

18世紀後半、庄内藩は歴代藩主の浪費や度重なる飢饉によって財政破綻しかけていた。
江戸藩邸にあった七代藩主の酒井忠徳はまだ若く、国元の家臣たちは逼迫する財政に頭を抱えるしかない。そんな時に財政管理者に任命されたのが、庄内藩の豪商・本間光丘だった。

まず、忠徳が藩主となるまでに庄内藩がどのようにして財政難に陥ったのかを辿ってみる。
藩の財政が悪化を始めたのは、5代藩主・酒井忠寄の頃からだ。忠寄は庄内藩の支藩である松山藩酒井家出身で、4代藩主の忠真が亡くなった後に跡継ぎのいなかった本家へとやってきた。彼の妻は加賀藩主・前田綱紀の養女で、金遣いが派手だったために雑用金が膨らみ、財政を圧迫させる要因となっていく。

その上、1739年(元文4年)には幕府から日光東照社の修理を命じられ、4万8千両の普請費用が財政をさらに圧迫した。そのため、藩士たちから禄と扶持を取り上げ、その代わりとして雑用金を支給するなどの異例の措置をとらなければならないほど、藩は困窮していたのである。
さらに藩を苦しめたのは、多発する凶作だった。
早魃、冷害、虫害などにより農民の生活は追い詰められ、年貢の支払いは滞り、未納米は溜まる一方という状況だった。
本来ならば、規定される以上の凶作の時には、取れ高に応じて年貢が免除されるのだが、藩にはその余裕すらなかったのである。

そのような状態でありながらも、藩は具体的な政策を打ち出せずにいた。
家老の水野忠朗が、子どもの多い家に対して養育米という制度をとり、5歳に成長するまで米を支給するという対策を講じたが、藩財政の悪化の防止には繋がらなかったようだ。
そして1766年(明和3年)、忠寄が亡くなり、息子の忠温がその跡を継いで六代藩主となった。
しかし、忠温もその翌年に病死してしまう。次いで七代藩主となったのが、忠温の嫡子でまだ13歳の忠徳だったのだ。

豪商・本間光丘は家臣団の家計整理を進める

藩財政が悪化する一方で、庄内藩では豪年間たちが勢いをつけはじめていた。
というのも、藩財政が逼迫すれば逼迫するほど、豪商たちには御用金が課せられることになる。するとそれに応じた豪商たちには、利益の独占を認められるという特権が与えられるのだ。
こうして豪商らは藩と結びつき、勢力を伸ばしていった。

財政を立てなおすために登用された本間光丘(ほんまみつおか)も、その1人であった。
光丘の父・光寿はたびたび献納を行っており、1764年(明和元年)にはついに藩士の身分を与えられている。本間家の財力に目をつけた酒井家の家臣らは、1767年(明和4年)に小姓格に昇進させ、家中の家計整理にあたらせたのである。

光丘は困窮する家臣団を救うことに主眼を置き、「大津借」の整理を行わせた。
「大津借」というのは大津商人から借りている高利子の借金のことで、光丘は自らが肩代わりする形でこれを清算したのである。

光丘がこのような家計整理に取り組む中、18歳になった忠徳が初めて庄内藩に入ることになった。
この時、忠徳は財政難で旅費を全額江戸で調達できなかったため、庄内藩に向かう途中の福島藩で足りない分の旅費を国元から届けてもらうことにした。
ところが福島藩に着いても残りの旅費がなかなか届かず、忠徳は庄内藩の財政が藩主の旅費を調達できないほどに追い込まれていることを痛感することになる。

このような出来事があって、忠徳も財政改革の必要性を強く感じ、自ら生活費の節約に取り組んで藩の支出を抑えた。
しかしそんな忠徳の努力も虚しく、1775年(安永4年)には日光勤番を命じられ、再び多大な支出を強いられてしまうのである。
ここに至って忠徳は、家中の家計整理を担っている光丘に頼り、本格的に藩の財政改革を行うことにする。当初はその役目を固辞していた光丘だったが、藩主直々に何度も頼み込まれては、ついに折れざるを得なくなった。

こうして1776年(安永5年)、光丘は「安永御地盤組立」という名の予算案を作成する。
そもそも当時の財政は歳入よりも歳出の方が多く、年が経つほどに借金が膨れる構造になっていた。そのため、3年計画で歳入と歳出のバランスを改め、借金を返済できるように支出を設定したのだ。

さらに翌年の1777年(安永6年)には光丘自らが大坂まで赴き、商人に借金を願い出ている。
商人より低利子で金を借り、利息の高い藩の財務を整理するためだ。このような光丘の政策は功を奏し、庄内藩の財政は徐々に安定を取り戻していった。
しかし1780年(安永9年)、またしても藩は大凶作に見舞われ、再び財政は逼迫する。やむを得ず藩士らに負担をかけることになってしまい、光丘はこれに責任を感じて一度辞任した。
その背景には、もともと商人でありながらここまで重用された彼に対する、藩内の嫉妬や反発があったのではないだろうか。

だが他に改革に当たれるような人間はおらず、翌年には光丘は元の役職に戻ることになった。
また、光丘の躍進が原因になって目に見える形でお家騒動が巻き起こるようなこともなかったのである。

繰り返される危機と改革

彼らの苦労は、1781年(天明元年)に実を結ぶ。この年には庄内藩に1480両の余剰金が生まれ、さらに翌年には軍事費用として1500両が金庫に納められるまでになったのだ。
大坂より借り入れていた借金の返済も済み、ようやく庄内藩は危機を回避できたのだった。

ところが1783年(天明3年)、庄内藩は再び凶作に見舞われた。この凶作は庄内藩だけでなく奥羽全体に及んだもので、米価の高騰に庶民らは苦しむこととなった。
さらに悪いことに、1788年(天明8年)には幕府より川普請を命じられて再び支出を強いられてしまう。
そのため、庄内藩では新たに改革を行おうとする動きが現れた。この中で、光丘は農民達の借り入れを増やさないような救済政策を提案する。しかし凶作が続き借り入れが増加し、借入金の返済にすら困っている農民には、根本的な救済策が求められていた。

さらに、本間家のような豪商や豪農による土地取得が行われる一方で、借金がかさみ潰れ百姓となった農民が残した農地が増えている。
これらの土地の多くは耕作能力の乏しい土地であるため、新しい耕作者が現れず放置される。しかし、村にはこの土地に対する年貢も要求され、村自体を弱体化させていた。

この頃になると、光丘に対する不満が出始めた。
これまで光丘がとってきたのは放漫的な政策であったが、1787年(天明7年)より老中の松平定信が始めた寛政の改革は緊縮的な政策だったために、光丘の方針が受け入れがたいものとなってきたのだ。

このような状況に、光丘の排除を考えたのが酒井家の家臣・白井矢太夫だった。
白井は光丘のやり方は根本的な解決にはならず、むしろ農民を苦しめると指摘。光丘とともに、高利貸しや地主層を藩政から排除しようとしたのである。
ここに来て、光丘と白井の抗争が勃発。しかし1796年(寛政8年)に、光丘を擁立していた水野重幸という家老が失脚し、その水野と対立していた竹内八郎右衛門が中老に就任すると、光丘の立場は一気に悪くなった。
そして白井と竹内が組んだことによって、光丘は水野が失脚したのと同年に、藩政から追いやられてしまったのだ。

その後、白井の案を元に、年貢やそれを払うための借金を帳消しとする徳政を基本とした具体的な政策を庄内藩は打ち出している。
しかし高利貸しや地主層を藩政から完全に排除することはできず、彼らの目的をすべて果たすことはできなかったとされる。
光丘は1801年(享和元年)にこの世を去った。
結果から言うと、最終的に光丘の提案した政策は採用されなかったことになり、彼は失意のうちに死去したことになるが、彼の功績は大いに認められており、公私共に絶大な信頼を得ていたといわれている。

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