攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

【戦国時代の境界大名】真田氏――時代の趨勢そのままに主君を変える

こちらもご覧ください!(広告掲載のご案内

真田氏の発祥と、幸隆の活躍

真田氏は、もしかしたら一番有名な大名家のひとつかもしれない。
もとより「真田幸村(信繁)」は知らない者がいない有名人であるし、その父・真田昌幸の徳川氏を相手にとっての大立ち回りに憧れる人も多いだろう。加えて2016年度NHK大河ドラマ『真田丸』が大変な評判になったからだ。

ただ、境界大名としての真田氏を語ろうと思うと、少々前置きが長くなる。
真田氏は独立した大名であった時期が短いからだ。もとはごく小さな地域を支配する国人でしかなった真田氏が、戦国の動乱に巻き込まれるなかでその運命を転変させ、ついには近世大名として落ち着くまでの物語を紹介することにしたい。

真田氏は、信濃国小県郡の真田郷(長野県上田市)を発祥とする。そのルーツは信濃の名門である滋野氏と伝わる。その後裔で本家筋の海野氏から真田氏は分かれたとされ、両者は深く結びついていた。
だが真田幸隆(1513―74)の頃、1541年(天文10年)の「海野平の戦い」で甲斐(山梨県)の武田信虎と諏訪・村上ら信濃国人の連合軍に敗れ、父祖の地を追われることになってしまった。

その後、幸隆は妻の実家にあたる羽尾城(埼玉県滑川町)の羽尾幸全を頼り、次に箕輪城(群馬県高崎市)の長野業政を頼って、と各地を転々としたが、やがて驚くべき行動に出た。仇敵である武田氏に仕えたのだ。その時期ははっきりとしないが、天文16年の小田井原の戦いに加わっていることがわかっているため、それ以前のことと思われる。

この頃、武田氏内部では大きな変化が起きていた。幸隆が父祖の地を追われたのと同じ天文10年、信虎が嫡男の晴信(のちの信玄)によって追放されたのだ。
現代でいうところのクーデターである。幸隆は信虎がいなくなったことによって武田への恨みを捨てたのかもしれない。あるいは、信玄の将来性に賭ける気になったのだろうか。今となっては確かめようもないことだ。

武田家臣となった幸隆は、信濃先方衆として信濃攻略の尖兵となった。
その主な役割は、地縁・血縁を辿っての情報収集、そして説得工作であったと思われる。当時の戦国大名は絶対的存在ではなく、中小の国人たちを力と権威でなんとか押さえつけていた。その情況下で他国に侵略してその領地を奪い取るには、軍勢という力以上に、この幸隆のような他国の事情に詳しい人材が必須であったのだ。

そして幸隆は実際によく働いた。
望月一族や佐久(長野県佐久市)の伴野左衛門が信玄に恭順したのは、幸隆の調略工作の成果であったという。また、信玄は信濃の村上義清相手に大変な苦戦をし、天文19年に小県の砥石城(上田市)を攻めた際には「砥石崩れ」と呼ばれるような大敗を喫しているのだが、敗戦の翌年には幸隆がその砥石城をあっさりと乗っ取っている(『高白斎記』)。

信玄は幸隆の活躍を大いに認め、小県に2200貫文(石高に換算すると5400石余とされる)の所領を与えた。そのなかには真田郷も含まれており、幸隆は11年の月日を経てついに父祖の地を取り戻した、ということになる。
幸隆の謀略は1561年(永禄4年)の上野岩櫃城(群馬県東吾妻町)攻めでも発揮された。斎藤憲広が守るこの城の攻略を、すでに出家して名を信玄と改めていた主君に任された幸隆は、まず修験者・僧侶を介して和睦交渉を進めている。もちろん本気ではなく、陽動だ。
その間に憲広の甥である斎藤則実、そしてまた幸隆とは同族の斎藤家重臣である海野幸光・輝幸兄弟を裏切らせてしまったのである。こうして岩櫃城も武田の手に落ちた。

信玄が「我が目の如し」と讃えた昌幸

信玄が織田・徳川連合軍との戦いの最中に病に倒れ、1年後の1574年(天正2年)、幸隆もこの世を去った。
跡を継いだのは長男の信綱(1537―75)で、これを次男の昌輝(1543?―75)が助けた。いま一人、三男の昌幸(1547―1611)がいたが、こちらは7歳の頃から人質として武田氏に預けられていたせいか信玄に可愛がられた。やがて小姓を経て武田家臣団の名門・武藤氏の家督を継承し、通称と合わせて「武藤喜兵衛」の名乗りで知られるようになる。
『甲陽軍鑑』によれば、生前の信玄はこの昌幸を、曾根昌世と並んで「我が両眼の如し」と信頼したという。

ところが、事態は急変する。
信玄の後を継いだ武田勝頼が天正3年に「長篠の戦い」で織田・徳川連合軍に敗れ、この時に武田の重臣が数多く倒れた。そのなかに、信綱・昌輝の兄弟がいたのである。真田氏は当主を失い、昌幸が家に戻って後を継ぐしかなかった。
真田当主としての昌幸の役目は、父以来の上野国進出だった。北の脅威・上杉氏と武田氏の間には上杉謙信死後の天正6年に同盟が結ばれているので、相手にするのは関東の覇者・北条氏である。

天正8年、昌幸は北条氏が支配する沼田城(群馬県沼田市)を父譲りの謀略で攻め、周辺の城を落としたのちに本城を取り囲むことで無血開城を成功させた。
その後も沼田城を取り返そうとする北条方の軍勢の脅威や、かつて父・幸隆が家臣に引き入れた海野幸光と輝幸兄弟による謀反などもあったが、昌幸はこれらをすべて退け、沼田城を守った。また、本家筋に当たる海野兄弟を滅ぼしたことで、血筋的な正当性を高め、権威を増すことにも成功している。

武田氏滅亡と生き残り戦略の始動

1582年(天正10年)、昌幸と真田氏の運命はさらなる急変を見せる。
宿敵・織田氏の猛攻を受け、ついに主家の武田氏が滅んだのだ。
この時、昌幸は本拠地が危機に陥った主君・勝頼に「自分のいる上野に来られるのがよろしいと思います」と誘ったが、勝頼は親族である小山田信茂を頼った。しかしその信茂に裏切られ、勝頼は追い詰められた末に死んだ――と通説は語っている。ここに描かれているのは、信玄の遺児を必死に守ろうとする忠臣・昌幸の姿にほかならない。

昌幸の申し出が上野からの連絡であった、あるいは諏訪での評議に昌幸が加わっていたともいい、また昌幸が誘った場所が違うなど、細部は異なりながらも『甲陽軍鑑』『加沢記』『滋野世記』『真田三代記』といった史料がこの通説を伝えているわけだ。
ただ、この通説には異論がある。というのも、武田氏滅亡より先に昌幸が仇敵であるはずの北条氏に二度に渡って「臣従したい」という手紙を送っていたという話があるからだ。これを受け、上野方面を任されていた北条氏邦から北条への臣従を進める書状(「正村正視氏所蔵文書」)を送ったのが、勝頼の死の前日のことである。

加えて、昌幸が織田信長の元へ赴いて臣従したのは、勝頼が死んでからわずか4日のことだ。ここに浮かび上がるのは、滅びようとする武田氏に背を向け、新たな盟主を模索する陰謀家の姿である。
はたしてどちらが正しいのか。はっきりとした答えはわからないが、昌幸から北条方へ働きかけた書状が見つかっていないため、「昌幸は間違いなく武田滅亡前から裏切るつもりだった」とはいい切れない。
しかも『加沢記』は「昌幸は迫り来る織田の大軍と戦うための策として、北条・上杉の両方に臣従するから援軍を出して欲しいという手紙を出した。しかもその手紙がわざと織田方の手に渡るようにした」と記している。これが織田に圧力を与えて攻めにくくしたのだとしたら、やはり昌幸は武田を守って戦うつもりだった、ということになる。

昌幸の心中はともかく、武田は滅び、真田は上杉でも北条でもなく織田を新たな盟主として選んだ。
主家を滅ぼされた相手、そしてまた二人の兄を殺されたという憎しみを超えて織田に頭を下げたのは、所領を守っていくためには織田の下につくのが最善と考えたためだろう。もしかしたならば、仇敵・武田に従って父祖の地を取り戻した父、幸隆のことが昌幸の頭をよぎったかもしれない。
ところが、事態はさらに動いていく。武田が滅んだわずか3カ月後、信長が本能寺で明智光秀の謀反により、討たれたのである。全国平定まであと一歩と思われた織田政権は一気に空中分解し、家臣団が信長の後継者の座をめぐって相争うようになった。

そして、信長の死の直前に織田支配下となった甲斐・信濃は空白地域となり、周辺の大大名――上杉・北条・徳川による草刈り場となってしまう。当然ながら真田氏が拠点とする小県郡も例外でなく、以後、真田氏は生き残るために困難な立ち回りを求められるようになっていくのだ。
それはまさに本書で紹介している数々の境界大名たちと同じ、綱渡りの生き残りであった。

織田→北条→徳川

ただ、逆説的にいえば、信長死後の混乱は真田氏にとって好機であった。というのも、織田氏の支配下において、昌幸はせっかく手に入れたばかりの沼田城を取り上げられてしまっていたからだ。
そこで昌幸は旧武田家臣の吸収をはじめとする地盤の強化をすすめる一方で、まずはほかの信濃の諸将と話し合ったうえで北条氏への臣従を決めた。というのも、信長が死に、沼田城に入っていた織田重臣・滝川一益が中央へ戻ると、その結果生じた空白地帯を奪うべく、北条の大軍が信濃へ入ってきていたからだ。

ちなみに『信濃松代真田家譜』によると、この時に北条氏直が自らの出自――武田信玄の孫であることを誇示して服従を命じたので、旧武田家臣団は従った、という。武力と権威の両方を振りかざして中小勢力を支配するのは、戦国大名の常套手段であった。
しかし、中部地域をめぐる争いは、このまま北条氏の一人勝ちでは終わらない。徳川家康が甲斐にその手を伸ばしてきたのである。また、北の上杉景勝も信濃を狙っているのは明らかだった。

ここで昌幸が動いた。北条を見限り、徳川についたのである。
北条へ臣従の使者を送ってから、3カ月と経っていない。もともと、北条が狙っていた沼田城に、自らの手のものを送り込んで確保させているあたり、そもそもあまり長い間北条に従っているつもりはなかったのかもしれない。
以後、昌幸は徳川支配下の大名として中部地方各地で転戦することになる。その活躍もあってか、1583年(天正11年)年までには川中島(長野市)より北を除いた信濃の大部分が徳川に恭順した。

もちろん、昌幸もただただいいように使われていたわけではない。
それぞれ所有者のいる空手形とはいえ徳川より「本領安堵。上野箕輪。甲斐に二千貫文・諏訪郡を与える」という約束を勝ち取っているし(『矢沢文書』)、自らの支配地域を確実に安定させ、拡大させている。
室賀氏を倒して小県郡を統一したのは、天正12年のことだ。また、上田城を築き、そこを本拠としたのもこの頃のことである。

大大名たちを翻弄する昌幸

野心を持って所領を拡大させたといっても、結局は己の手が届く範囲だけのこと。境界大名の運命は、周辺の大大名たちの事情にあまりにもたやすく左右されてしまう。1585年(天正13年)の真田氏の場合もそうだった。
この頃、徳川と北条は和睦を取り決め、「甲斐と信濃の佐久・諏訪は徳川へ、上野は北条へ」と決まった。沼田は上野だから、当然ながら徳川支配下の大名である昌幸は北条方へ明け渡さなければならない。

だが、昌幸は納得しなかった。『寛政重修諸家譜』によれば「沼田は北条にもらったものでもなければ徳川にもらったものでもなく、あくまで自分の手によって勝ち取ったもので、北条に渡すいわれはない」といった意味のことをいったらしい。ふたつの大大名家に対して啖呵を切って見せたわけだ。
また、『長国寺殿御事蹟稿』(真田昌幸伝)に収録されている「玉川左門控書」という史料によると、この時に家康は伊那郡(伊那市など)を代替の領地として提案し、家臣たちも徳川への反逆は止めたらしいのだが、昌幸は「そもそも伊那郡はすでにほかの武将に与えられていて、実現性が低い」「代替の地を与えるにしても、先に沼田を渡せというのはおかしい」と反発した、と伝わっている。

ともあれ、徳川・北条と手切れしてしまったとあっては、もう頼る相手は北にしかない。昌幸は上杉景勝への臣従を申し出た。その条件として差し出された人質が昌幸の次男弁丸、のちの信繁(幸村)である。
この頃の上杉氏は中央で勢力拡大を続ける豊臣秀吉と密接な関係にあり、その豊臣と徳川が対立関係にあることを大義名分として信濃への侵攻を続けていた。しかし、この両者は前年に「小牧・長久手の戦い」で争った後に和睦していたため、上杉氏としては信濃に手を出しにくくなっていたのである。そこで真田氏からの誘いがあったため、喜んで乗ったわけだ。

上杉氏という後ろ盾、そして援軍の当てを得て上田城に籠る昌幸に、徳川の大軍が迫った。徳川方7000に対して、真田方はかき集めて2000というから、普通に考えればとても勝てる相手ではない。
ところが、城の前の川を一息に渡って門を破り、城内に侵入した徳川勢は、待ち構えていた真田の伏兵に散々に打ち破られてしまった。徳川の被害1300に対して真田が失った兵は40あまりというから、これはもう真田の大勝である。この戦いを第一次上田合戦という。
しかし、徳川はこの頃すでに三河・駿河(静岡県)・遠江(同)を支配し、甲斐と信濃にも手を伸ばす大大名である。一度の敗北で引き下がるはずもなく、井伊直政が5000の援軍を率いて戦線に到着。じっくりと上田城を攻める構えを見せていた。

ところが、徳川軍は年が明ける前に引き上げてしまう。これは、徳川の重臣である石川数正が豊臣方へ出奔してしまった結果、豊臣・徳川関係がふたたび緊張化し、真田を攻めているどころではなくなってしまったからだ。
ちなみに、上田合戦の直後には徳川と同盟する北条氏が沼田城に攻め寄せてきているが、この城を任されていた昌幸の腹心、矢沢頼綱(昌幸の叔父)がその攻撃を退けている。
この時の昌幸は大大名2家を向こうに回しての大立ち回りで、策士の面目躍如といっていいだろう。境界大名としての真田氏、その絶頂の姿がここにあった。

豊臣大名としての真田氏

しかし、絶頂に至ったということは、後は落ちていくだけ、ということでもある。
ここまで次々と盟主を取り替えながら勢力の維持と拡大を果たしてきた真田氏であったが、それももう難しくなってきていた。世の情勢が豊臣秀吉の一人勝ちへと近づいていたからだ。
1586年(天正14年)、睨み合いを続けていた豊臣・徳川関係が進展した。家康が秀吉の妹・朝日姫を嫁として迎え入れ、両者が手を結んだのである。

これは、徳川にとって真田を攻めない理由がなくなったということであり、また真田が上杉を頼れなくなったということでもあった。
実際、豊臣家臣の増田長盛と石田三成が上杉景勝に宛てて「昌幸を助けてはならない」という手紙を送らせていることが『上杉家記』に記されている。なお、昌幸のキャッチフレーズとして有名な言葉「表裏比興の者」(裏表があるくわせ者)は、この手紙のなかに出てくるものだ。

しかし、結局のところ、徳川が真田を攻めることはなかった。秀吉が真田討伐を取りやめさせたからである。この理由ははっきりしていないが、「そもそも秀吉は家康に真田を攻めさせるつもりはなく、交渉材料にしただけ」とする説もあるし、「真田を討伐した場合に上杉・北条・徳川の力関係から大きな混乱が起きるのでは」と考えたと見る向きもある。また、上杉景勝が真田擁護を続けていた(『上杉家記』)ことが功を奏したのだとも考えられる。

どちらにせよ、真田氏はこの時もギリギリのところで命拾いをしたことになる。翌年、昌幸は上洛して秀吉に挨拶をし、これによって豊臣政権に組み込まれることになった。
しかもそれだけではなく、ほかの信濃の大名と同じく、徳川家康の与力(戦時に軍事指揮下に入る)としてその管轄下に組み込まれることになってしまった。昌幸の屈辱はいかばかりであったろうか。
ちなみに、この与力大名としての関係性のなかで、昌幸の嫡男・信幸(1566―1658)が徳川重臣・本多忠勝の娘の小松殿(稲姫)を正室として迎えている。与力大名を支配下に組み込むための常套手段であった。

沼田問題から秀吉の天下統一ヘ

真田氏関連ではもう一つ、片付けなければならない問題があった。北条氏と長年争ってきた沼田の所有問題である。
1589年(天正17年)、秀吉の裁定の結果、沼田の3分の2を北条、名胡桃城(群馬県みなかみ町)を含む3分の1を真田が取ることになった。秀吉としては本来沼田をすべて北条側に渡すつもりであったようだが、昌幸が「名胡桃は先祖代々の墳墓の地であり、これを渡すことはできない」と主張したため、このような裁定になったようだ。本項を読めばわかる通りこれはまったくのでたらめなのだが、当時の常識として尊重される主張であったため、こう決まった。

ところが、この年のうちに北条側が動いた。
名胡桃城を守る真田家臣を謀略で城から誘い出し、その隙に奪いとってしまったのである。
当然、これは真田と北条の間だけの問題では終わらない。自らの裁定を足蹴にされた秀吉はすぐさま小田原攻めを決定、未曾有の大軍で北条氏を攻めた。もちろん、真田氏もこの大軍に加わっている。北条氏も関東の覇者の矜持にかけて抗ったが、結局は蟷螂の斧だった。

この小田原攻めを機に、まだ秀吉に恭順していなかった関東・東北の諸大名も秀吉の支配下に入り、入らなかったものは改易され、ついに豊臣氏によって天下は統一されたのである。
また、信幸が沼田城主となったのも小田原攻めの後であった。

関ヶ原と「犬伏の別れ」

こうして秀吉は天下を統一した。だが、2度の朝鮮出兵には成果がなく、政権内部には対立が多く、また自らが後継者に据えた甥で養子の豊臣秀次を、実子の秀頼誕生後に排除してしまうなど、晩年には失政が目立った。
これらが遠因となり、秀吉の死後に諸大名の対立が激化。1600年(慶長5年)、五大老の一人である徳川家康が、同じく五大老である会津の上杉景勝を攻める軍を挙げ、その隙に五奉行の石田三成が中央で挙兵する。「関ヶ原の戦い」の始まりである。

この時、真田氏は当主の昌幸、嫡男の信幸、次男の信繁の二人ともに、家康に従って上杉攻めの軍に加わっていた。
しかし、そこに石田三成挙兵の知らせが届き、三者は家康の東軍と三成の西軍、どちらにつくかを相談した。結果、昌幸と信繁は西軍に、信幸は東軍につくことを決める。この時に彼らの陣が下野国の犬伏(栃木県佐野市)にあったことから、俗に「犬伏の別れ」と呼ぶ。

このように親子が別れた背景には、昌幸と信繁(上杉での人質生活の後、豊臣でやはり人質として暮らしていた)が三成と縁が深かったのに対して、信幸は本多忠勝を義父にもつなど徳川とのつながりが強かったこともあるだろうが、それだけとは考えにくい。
むしろ、その縁を利用して、天下が豊臣に転ぶにしても、徳川に転ぶにしても、真田氏を残したかったのだと通説は語るし、これは信じてよいだろう。

結局、信幸が改めて徳川に恭順したのに対して、昌幸は信繁とともに上田城に籠った。
そこに、家康の子・秀忠が率いる大軍が迫る。目的は美濃で家康の本軍と合流することであったが、その行き掛けの駄賃として上田城を落とそうとしていたのだという。信幸もこの軍勢に加わっていた。

そして、第二次上田合戦が始まった。
この時の様子が『改選仙石家譜』などの史料に記されているのだが、それによれば、昌幸はまずあらかじめ城の前の神川の流れを上流でせき止め、さらに伏兵も伏せていた。そのうえで秀忠の軍勢を誘き寄せ、近づいたところで上流の堰を切らせ、城内からも出陣し、伏兵にも飛び出させる。これによって徳川軍は大いに混乱し、そのまま退かざるを得なくなったのである。

結局、秀忠は上田城を落とせぬまま、本来の目的である家康との合流のために西へ向かった。
彼が父のもとにたどり着いた時、「関ヶ原の戦い」はもう終わっていた。徳川家康の、東軍の勝利であった――。

その後の真田氏

境界大名としての真田氏の物語はここで終わったといってよい。天下は徳川家康のもとに帰し、大勢力同士のぶつかり合いが生みだす境界がなくなったからだ。だから、以後は後日談である。

戦後、西軍に与した大名は多くが処刑され、あるいは改易処分となった。
昌幸・信繁親子も当然ながら死と所領没収が申し渡され、徹底抗戦の構えをとっていたが、そこに信幸が必死の嘆願をした。家康は、かつて信幸が親兄弟と別れて己の味方をすると申し出た時に「奇特千万に候」とその行動を喜んだ手紙を送っている(『真田家文書』)。それだけ信幸を評価していたのだろう。

死を免れた昌幸と信繁は紀伊国の九度山(和歌山県九度山町)に幽閉され、長い時をここで過ごした。昌幸は1611年(慶長16年)に亡くなったが、信繁はなお生きた。そして慶長19年、豊臣氏の誘いに応じて九度山を出ると大坂城(大阪市中央区)に入り、大坂冬の陣・夏の陣の二度の戦いを浪人衆の代表的人物として戦っている。
冬の陣では大坂城に「真田丸」と呼ばれる出城を築いて幕府の大軍を防ぎ、そして夏の陣では三度に渡る突撃によって家康の本陣まであと一歩と迫った末に討ち死にしてしまう。その奮戦ぶりには幕府方の諸将も感嘆し、「真田日本一の兵なり」(『後編薩藩旧記雑録』)、「古今にこれなき次第に候」(『細川家記』)と大いに讚えた。

一方、信幸はもともと自分が持っていた沼田2万7千石に父の上田3万8千石、さらに小県で3万石を与えられ、計9万8千石の大名となった。また、徳川への反逆者である父や弟との距離をおくために「幸」の通字を捨て、「信之」を名乗る一方で、九度山幽閉時代の二人にたびたび支援をするなど、複雑な立場もあったようだ。

その後、上田から松代(長野市)に移封。沼田領3万石とあわせ13万石となり、沼田は庶長子の信吉に預けた。
1656年(明暦2年)に信之が隠居し、松代は小松殿との子・信政に継がせ、真田氏は2家に分かれ江戸時代に入ったが、沼田真田家はのちに領内騒動で改易されている。松代藩は江戸城帝鑑間詰の譜代大名扱いで、とくに幕末に養子に入り家督を継いだ真田幸貫は、寛政の改革で知られる松平定信の実子であることもあってか、老中になっている。
幸貫は洋学者・佐久間象山を登用するなど佐幕派のなかでも開明的だったが、彼の病没後に松代藩は迷走して尊王思想へと偏り、象山も京で尊攘過激派に暗殺されてしまう。結局、松代藩は早期に倒幕派へと与し、戊辰戦争でも新政府軍に参加した。

kojodan.jp

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する