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【戦国時代の境界大名】相馬氏――奥州第一の実力者・伊達氏との抗争を戦い抜く

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1000年以上の歴史をもつ伝続行事

相馬野馬追(そうまのまおい)という祭りをご存じだろうか。
福島県浜通り(太平洋岸)の北部で行われている祭りで、騎馬による行進や、馬を追って神へ捧げる儀式が中心となっている。国指定重要無形民俗文化財にも指定され、明治初期にしばらく中断していた時期はありながらも、1000年以上の長きにわたって続けてこられたと伝わる、由緒正しい祭りだ。

この祭りの起源は平安時代に関東で覇を唱えた「新皇」平将門にさかのぼるが、神事を守ってきたのは陸奥の名門武家・相馬氏だ。
彼らもまた祖を平将門と伝えてきた一族である。家名の由来は下総国(茨城県ほか)相馬郡にあるが、源頼朝の奥州攻めの際に陸奥国へやってきた者たちが定着し、行方郡小高(福島県南相馬市)を拠点として長く勢力を誇ってきた。
しかし戦国時代の相馬氏は独立して陸奥に覇を唱えられるほど力のある大名ではなかった。東北には鎌倉以来の名門武家が数多い。とくに相馬氏は北西に伊達氏、西に蘆名氏、南に佐竹氏と大勢力に挟まれ、誰と結び、誰と対立するか、慎重に対応しなければいけない立場にあったのだ。

とはいえ、戦国時代の東北が、常にそこかしこで火が吹きそうな状況だったかといえば、かならずしもそうではなかった。名門武家が多く、古くからの因縁もあるためか、まずは婚姻・養子政策を中心とした外交交渉こそが第一の手段として用いられたようだ。
実際、戦国時代における奥州第一の実力者たる伊達氏を躍進させた伊達稙宗は、多大な贈り物をすることで朝廷から「左京大夫」の役職を与えられ、また陸奥国守護にも任じられた。
じつは、陸奥国は長い間、奥州探題(室町幕府の出先機関)の大崎氏が代々左京大夫につき、影響力を行使してきた。ところが稙宗はその左京大夫の職を受け、しかもこれまで置かれたことがなかった陸奥国守護にも任じられた。つまり、「伊達氏こそが大崎氏に代わる奥州の支配者になった」と幕府が認めたことになったわけだ。

この権威をバックに、稙宗は同盟者を増やしていく。なんと、稙宗には男女合わせて二十数人の子がいたから、あちこちに嫁として、あるいは養子として送り込まれ、伊達の味方を増やしていくことになる。
もちろん、相馬氏も稙宗の外交ターゲットになった。長女が相馬顕胤(1508―49)に嫁入りしただけでなく、なんと30年も経ってから顕胤の孫・義胤(1548―1635)が稙宗の末の娘と婚姻を結んでいる。現代の感覚ではなかなかイメージしがたい関係性だが、とにかく相馬氏と稙宗には深い縁があったことだけ覚えてくれればそれでいい。

一方で、外交交渉が主だったから合戦はなかったのか――といえばそんなことはなかった。やはり彼らは武士であり、なにか差し障りがあれば最後には武力で解決するのが当たり前なのである。
実際、1534年(天文3年)には伊達と蘆名、そして相馬の連合軍と、白河(結城)・岩城の間の合戦が、婚姻政策でのトラブルから始まっている。江戸時代に記された相馬氏の史書『奥相茶話記』によると、顕胤は稙宗の依頼を受けて、稙宗の子・晴宗と岩城重隆の娘の間の婚姻を取りまとめた。
ところが、重隆は約束を破ってその娘を白河氏に嫁に出そうとしたため、面目を潰された顕胤が大いに怒って岩城氏に攻め込んだ――という。結局この戦いは伊達・相馬側の勝利に終わり、岩城側が謝罪して改めて婚姻を取り結ぶことになった。

伊達氏天文の乱の衝撃

このできごとからもわかるように、戦国時代初期、相馬氏と伊達氏の間柄は良好だった。いやむしろ、比較的に弱体の相馬氏が、伊達氏との縁を武器にして戦国乱世を乗り切ろうとしていたふしさえある。
だが、ある事件をきっかけとして、相馬・伊達関係は大きく動く。伊達稙宗がその3男を越後(新潟県)守護・上杉定実に養子を送ろうとしたところ、稙宗嫡男の晴宗と家臣団が反旗を翻し、1542年(天文11年)に稙宗を幽閉することによって強引に養子話を破断させてしまったのだ。

この事件の原因は、単に越後上杉氏との関係がどうこうなどというところにはない。以前から晴宗が父による極端な拡大政策に不安を抱いていたことに加え、稙宗は外に向かっては相馬氏をはじめとする味方を多く作ったが、内に対しては税を重くするなど敵を増やす政策をとっていたことがある。
しかも、晴宗が父を幽閉して伊達氏を取りまとめることに成功すれば、まだ話は簡単に終わったのだが、そうはいかなかった。脱出した稙宗は縁戚関係にある諸勢力の力を借りて、おもに伊達家臣団の支持を受けた息子に戦いを挑んだのである。結果、伊達家中のみならず東北地方の諸大名ほとんどすべてを巻き込み、かつ二分する形で、伊達家の親子喧嘩が始まってしまったわけだ。これを「伊達氏天文の乱」とか「伊達氏洞の乱」とかいう。

この時、相馬氏は稙宗の側についた。深い婚姻関係を考えれば当然のことである。戦いは当初、稙宗側有利に展開していたから、利を求めてというところもあったかもしれない。
骨肉の争いはなんと6年にも及んだ。その間、顕胤もあちこちに出陣して稙宗を助けたが、やがて戦いの趨勢は晴宗側有利へ傾いていく。やはり、伊達氏を支えてきた譜代家臣団にそっぽを向かれたまま戦い続けるのには無理があったのだろう。あるいは、長期戦のなかで晴宗の若さがものをいい出したのかもしれない。

ともあれ、親子の和睦が成立し、稙宗は隠居して伊達氏の実権をすべて息子・晴宗に譲り渡した。こうして伊達氏には平和が戻ったが、なにもかも元通りとはいかない。東北を制覇するかに見えた伊達の勢いは長い内乱のなかで衰え、会津の蘆名や常陸(茨城県)の佐竹といった勢力の手が伸び始める。
そしてなによりも、稙宗に味方しながらも勝たせることがかなわなかった相馬氏が、以後、伊達氏と対立する道を選んでいくことになるのだ。

#相馬・伊達の終わりなき戦い

顕胤は「天文の乱」が終わった翌年に亡くなり、その子の盛胤(1529―1601)が後を継いだ。父の無念を継いだか、盛胤は伊達晴宗、またその子の輝宗とたびたび合戦を繰り広げていった。
これは天文の乱以来の因縁の影響でもあったが、伊達氏内部の反晴宗派が反乱を起こし、討伐されては相馬領内に逃げ込む、という事件がしばしばあったせいもあるようだ。裏切り者を匿われればいい気がしないのは、伊達氏としては当然である。

かたや天文の乱で勢力と権威を減じたとはいえ、陸奥南部を代表する大大名の伊達氏。かたや小勢力にすぎない相馬氏。その力の差は明らかであったが、盛胤は一歩も引かず、むしろときに伊達氏を押し返しさえした。実際、相次ぐ戦いのなかで伊達領であった伊具郡を切り取り、金山城や丸森城(ともに宮城県丸森町)を攻め取っているのだ。
また、相馬氏は単独で伊達氏と戦っていたわけではない。1574年(天正2年)、輝宗が最上氏の家督争いに介入して出陣すると、盛胤は伊達と戦う最上義光と同盟を結び、挟み打ちの形を取っている。

戦いは多年にわたって断続的に続き、周辺の縁戚にある諸勢力が和平の仲介に働いたが、実現しなかった。結局、両者の争いが一時休戦状態になったのは天正6年、隣国越後で上杉謙信の跡目をめぐる後継者争いが勃発し、国境が不安定になったため伊達軍がそちらへ出兵せざるを得なかったことが原因だった。
ただ、この時期には相馬・伊達両勢力の内部でも状況の変化が起きている。相馬氏は同年に盛胤が隠居して31歳の義胤が家督を継ぎ、伊達氏では3年後に15歳の政宗が相馬氏との戦いで初陣を飾っていた。
以後、義胤と政宗の激しい戦いが、東北地方の戦国時代、その最終章を彩っていくことになる。

戦いの終わり

相馬と伊達の間に一応の和平が訪れたのは1584年(天正12年)で、この時に、盛胤が奪い取った金山城と丸森城が伊達側へ返却されている。政宗が伊達の家督を継承したのはまさにこの年のことである。
和平が結ばれたといっても、両者の関係が改善されたわけではない。天正16年、田村氏の内紛に乗じて伊達。相馬両方が動き、ふたたび晩み合うことになる。この時は長い雨で合戦にはならなかったが、政宗が兵を退いた隙に義胤が田村氏の本拠地である三春城(福島県三春町)の乗っ取りを企んだ。だが、この試みは田村氏内部の政宗派によって防がれ、急ぎ出陣した政宗によって義胤は相馬領内へ押し戻されてしまった。

それでも義胤は諦めない。
以前から付き合いのあった岩城氏を通じて、佐竹氏と結んだ。また、この頃の政宗は会津の蘆名氏と激しく争っていたので、その背後を突く形でたびたび伊達領を脅かした。
しかし、天正17年、南奥州の情勢は確実に伊達氏優勢へと移り変わっていった。義胤は政宗の反撃によって駒ヶ嶺・新地(ともに福島県新地町)の2城を奪われてしまい、また蘆名氏は「摺上原の戦い」で政宗によって攻め滅ぼされた。ことここに至って、南奥州の諸勢力は雪崩を打って伊達氏に恭順し、頑として反抗を続けるのは相馬氏と岩城氏くらいになってしまっていたのだった。しかもこの年の終わり頃には伊達・岩城の和睦が成立する。いよいよ相馬氏は孤立してしまった。

後ろ盾としてまだ北関東の佐竹氏はいるが、政宗の勢いに対抗できるほどの力はない。万策尽きたのか、翌天正18年初頭、相馬如雪斎(盛胤か)から政宗に和睦が申し込まれている。
政宗も、もはや相馬の如き小勢力に力を割くつもりはなかったのだろう。和睦交渉を進める一方で、その後ろにいる佐竹氏を攻めるべく準備を進めている。
ところが、情勢の変化は奥州の外で起きた。この頃には中央をすっかり制圧してしまっていた豊臣秀吉が政宗に対して、「関東の北条氏を征伐するから従軍するように」と厳しい命令を下してきたのだ。これはいわば時間切れ宣言であり、政宗はもう相馬攻めどころではなくなってしまった。

相馬氏が天文の乱以来ひたすら伊達氏と戦い続けてきたのに対して、伊達氏にはほかにも敵がいた。最上氏、蘆名氏、佐竹氏、そしてなによりも中央からの干渉だ。
そもそも、奥州と中央は決して無関係ではなかった。古くは稙宗が「陸奥国守護」の権威を活用しているし、輝宗も織田信長から「上杉謙信を攻めろ」という命令を受け取っている(この時は実際の行動は起こしていないようだが)。

そして、その信長の死後に後継者争いに勝利し、絶大な権勢を手に入れた豊臣秀吉は、関白としてたびたび伊達氏に「争いをやめよ」「支配下に入れ」と呼びかけてきた。対して政宗は積極的対立姿勢はとらないながらも、「奥州のことは陸奥国守護である自分の領分だ」とその干渉をはねのけ、また北条氏と手を結んで秀吉と戦うことも画策していた。彼はあくまで、己の手で天下を取るつもりだったのだ。

しかし、秀吉の北条攻めが政宗の野望を打ち砕いた。
秀吉の軍勢は東北と関東以外の日本国すべてをかき集めたかのような大軍であり、とてもかなう相手ではない。政宗は佐竹領侵攻を諦め、同盟者である北条氏からの悲鳴のような救援要請を無視した。そして秀吉の北条攻めに加わり、豊臣政権に恭順することで滅亡を回避したのである。

秀吉による「北条征伐に参加せよ」という命令は相馬氏にも届いていた。義胤は佐竹義宣とともにその陣に駆け付け、遅参を責められたものの石田三成のとりなしがあって許された。
北条氏滅亡後、秀吉は会津に入って奥州仕置に取り掛かった。秀吉に恭順しなかった諸大名は取り潰され、恭順したものは所領を安堵された。相馬氏は4万8700石を認められ、佐竹氏の与力大名(戦時に軍事指揮下に入る関係)として位置付けられている。

その後の相馬氏

こうして奥州の戦国時代は終わったが、相馬氏の苦難はもう少し続く。
天下分け目の「関ヶ原の戦い」に相馬氏は出陣しなかった。というのも、佐竹氏が石田三成との縁から東軍に積極的に味方しようとしなかったからだ。いやむしろ、密かに上杉景勝らと連携し、東軍を挟み打ちにしようとした……とさえいわれている。
与力としては佐竹の方針に従わざるを得ないし、また北条攻めの時から石田三成とは親しい。義胤が嫡男に「三胤」(1581―1625)と名付けたくらいだ。表立って西軍に加わるほどではなくとも、三成と戦いたくはなかったに違いない。

ところが、関ヶ原の戦いで勝ったのは東軍であり、徳川家康であった。
当然、味方しなかったどころか「敵と通じていたのではないか」と疑われる佐竹氏と、相馬氏をはじめとする佐竹の与力大名たちはただでは済まない。1602年(慶長7年)に改易とされてしまった。
この時、交渉に奔走したのが義胤の子・三胤である。彼が苦労の末、その年のうちに旧領の安堵を勝ち取ったことで、相馬氏は近世大名相馬家として残ることができたのだ。なお、三胤はのちに「利胤」を名乗っているが、この「利」の字は、徳川家中の有力者、土井利勝からもらったものである。

その後、義胤が居城を中村城(相馬市)に移したことから、中村藩相馬家としてその血筋が残っていく。
隣国に因縁深い仙台藩伊達家があったことから無言のプレッシャーもあったようだが、伝統の行事である相馬野馬追を軍事訓練と士気向上に役立てるなど、武士としての気概を強く持ち続けた。
幕末、戊辰戦争においてはその仙台藩が盟主となった奥羽越列藩同盟に加わったが、戦況の悪化から早々に離脱し、新政府軍に降伏した。

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