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【戦国時代の境界大名】奥平氏――家運が開いた運命的な活躍の場とは?

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奥三河に根を張る山家三方衆

奥平氏は三河国(愛知県)の北部、信濃(長野県)・遠江(静岡県)に接する中山道の交通の要衝、設楽郡作手(つくで、愛知県新城市)に勢力を誇った国人である。亀山城を根拠とし、近隣の田峰城主・長篠城主の両菅沼氏と密接な婚姻関係を結んで「山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)」と呼ばれていた。

この近辺はもともと三河守護代の野田氏が勢力を誇っていたのだが、戦国時代初期の永正年間(1504―21)にはその力が衰えていった。
結果として生まれた空白地域に、奥平氏をはじめとする国人たちが勢力を広げていったのだが――しかし、そうなれば周辺の大勢力も放ってはおかないのが世の常である。以後、作手近辺は次々と有力大名の圧迫を受けることになる。

最初に手を出してきたのは野田氏の衰退とほぼ重なる永正年間、駿河(静岡県)・遠江の今川氏親だ。
氏親は室町将軍・足利家にも連なる今川氏を躍進させた人物であったが、彼が1526年(大永6年)になくなると、今川氏の勢力は一時衰退する。彼の後釜を狙って内紛が起きたからだ。
その隙をついて、西三河の国人・松平氏が東にもその手を伸ばす。とくに松平清康の時にはほぼ三河全土がその支配下に入り、当然ながら作手の国人たちも清康に従ったのだが、1535年(天文4年)に清康は部下によって殺されてしまう。

一方、この頃には今川氏の内紛はすっかり収まって、氏親の子・義元がその勢力をふたたび拡大させつつあった。義元は東の北条氏や北の武田氏と同盟を結んで西へ進出する意図を持っていたので、自然とその目は三河に向いた。
この時、力を失っていた松平氏は義元に従い、作手の諸将もこれに習って恭順したのだが――話はそう簡単に終わらなかった。三河の西、尾張国(愛知県)の織田氏もまた三河に手を伸ばし、山家三方衆は織田に従ったのである。
これが天文年間(1532―55)の終わり頃のことだ。

もちろん、そんなことを義元が許すはずもない。
1555年(弘治元年)、今川の圧迫が強まり、山家三方衆はあっさりと元の鞘に納まってしまった。これでなにか厳格な処罰や取り潰しということにならないあたり、戦国期の境界大名がその時その時の風向きに従って裏切るのも、また恭順するのも、ごく当たり前のことだったとわかる。

三河の混乱はまだまだ続く。1560年(永禄3年)の「桶狭間の戦い」において、奥平氏は松平元康(徳川家康)の麾下に入って、大高城(名古屋市緑区)への兵糧運び入れに参加したり、丸根砦(名古屋市緑区)攻撃に加わったことが『寛政重修諸家譜』に記されている。
この戦いで今川義元が討ち死にし、徳川家康が織田氏と結んで今川氏と対立・独立を果たすと、奥平氏ら作手の諸将もまた今川氏を見限って徳川についた。

この頃までにだいたい50年ほどの時が過ぎ、奥平氏の当主も貞昌・貞勝・貞能と代替わりをしていた。貞能(1537―98)は徳川臣下として今川氏との戦いや、「姉川の戦い」などに加わっている。
とくに旧主君である今川氏の掛川城(静岡県掛川市)を攻めた際には、和睦が成立してなお徳川に不審が強く、城を明け渡そうとしない今川氏真を説得したという(『寛政重修諸家譜』)。
ところが、今川氏が滅んで徳川氏が三河・遠江の盟主となっても、奥三河の情勢は安定しなかった。永禄8年、隣接する甲斐(山梨県)・信濃を治める武田信玄が侵略を開始したのである。

徳川氏の戦略において、信濃との国境に面する山家三方衆は対武田の最前線と位置付けられていたはずだ。
しかし、彼らはごくあっさりと武田方に寝返ってしまっている。これは、まだ家康との間に強固な主従関係がなく、境界大名として有利な方についただけ、ということなのだろう。

1572年(元亀3年)、信玄自らが兵を率いて攻め込んだ「三方ヶ原の戦い」で武田方が勝利し、家康はほうほうの体で逃げ延びるしかなかった。この時、武田方に与していた奥平貞能は、このまま武田が徳川を滅ぼすと思ったに違いない。
ところが、信玄はそのまま西へ進むことはなく、信濃へ、そして甲斐へと帰還してしまった。徳川、ひいてはその背後にいる織田にとって最大の危機は過ぎ去り、三河情勢は最後の急転を迎えようとしていた――。

長篠の戦いにおける運命の決断

ここまで見てもらったとおり、奥平氏は典型的な境界大名といってよい。
外に対してはその時その時の状況に合わせて臣従相手を変え、内に対しては「山家三方衆」を構成して団結した。三河作手地方という交通の要所において、小国衆にすぎない奥平氏が生き延びるためにはこれしかなかったのだろう。
しかし、このような戦略が通用するのは、戦国時代も初期から中期までだ。あるいは「織豊時代が訪れるまで」というべきかもしれない。

織田・豊臣に代表される、複数の地方にその手を広げるような巨大勢力が誕生すると、どちらつかずの態度は許容されなくなるからだ。
あくまで独立を守ろうとして潰されるか、巨大勢力に頭を下げて所領だけは守るか。いや、そもそも頭を下げる相手が本当にその相手でいいのか? 最後の勝利者になるのは別の勢力ではないのか? 多くの大名が難しい判断を迫られたのが織豊時代であった。

奥平氏にも決断の時はやってくる。1573年(天正元年)、先年の三方ヶ原の戦いで勝利した武田軍が兵を退いたのは「信玄が病で倒れたからだ」との情報を入手し、「後継ぎの勝頼相手なら徳川・織田が勝つ」と情勢の変化を重く見た奥平貞能は、幾度目かの主替えに踏み切る。武田を見捨て、徳川・織田連合軍に帰参したのだ。
家康はこの決断を重く受け取り、ふたたび徳川家臣として受け入れるとともに、貞能の子・定昌(信昌。1555―1615)と長女・亀姫との婚約を取り決めた。一族に取り込むことで奥平氏を完全な味方にしようと試みたのだろう。

しかし、家康が本心からやすやすと奥平氏を迎え入れたとは考えにくい。
なにしろ彼らは一度徳川を裏切ったわけだから、相応に過酷な処遇を与えるのが当然だった。それは「信用できない」「罰を与えたい」ということでもあったろうし、また「奥平氏が徳川家中の信用を得るために功績が必要だった」という側面もあったはずだ。
では、奥平氏が与えられた過酷な状況とはなんだったのか。それは、1575年(天正3年)に長篠城(新城市)を預けられたことだ。武田氏からすれば、裏切り者が重要拠点に入ったのだから、決して見逃すことはできない。同年のうちに、武田氏2万の大軍が長篠城を取り囲んだ。いわゆる「長篠の戦い」の始まりだ。

この時、奥平貞能は三河岡崎(岡崎市)にいて、長篠城には不在だった。
城を守っていたのは嫡男の定昌だ。そして、彼の活躍はめざましかった。寡兵でよく籠城戦を戦い抜き、徳川・織田の連合軍が到着するまで長篠城を守り切ったのだ。
この時のこととして、奥平家臣の勇士・鳥居強右衛門(とりいすねえもん)にまつわる逸話がよく知られている。強右衛門は単身敵の包囲を切り破って家康に援軍を要請し、その後、長篠城に舞い戻って援軍来たるの報を知らせようとしたところ、武田勢に捕らえられてしまった。

命と仕官の代わりに「援軍が来ない」と嘘をつけと迫る武田武将に対し、強右衛門は命を捨てて真実を仲間に伝えた。これにより、長篠城は援軍到達まで守り切ることができた、という。
このような豪勇の士の力があってこそ、奥平氏は危うい綱渡りのごとき立ち回りをしてこれたのだろう。
長篠の戦いの後、織田信長は定昌の功績を「勝てたのはひとえにお前のおかげだ」と褒め、褒美とともに自らの名を与えた。以後、定昌は「信昌」と名乗るのである。
さらに家康からは作手・長篠といった旧領に加えて遠江にまでまたがる新領を与えられ、計3千石の所領を得るのだった。

幕府の忠臣・奥平氏

以後、奥平信昌は家康の娘婿として徳川氏に忠誠を誓い、数々の戦いで功績を上げる。
「小牧・長久手の戦い」でも戦功を残し、これをのちに豊臣秀吉に褒められたところ、あくまで上役である徳川四天王の一人の酒井忠次の指揮がよかったからだと謙遜して答えたところ、秀吉はその人柄のよさを大いに褒めたという(『寛政重修諸家譜』)。

徳川氏が秀吉の命で関東に移った際には上野(群馬県)小幡3万石を与えられ、大名となった。
さらに「関ヶ原の戦い」の後には、朝廷や公家との折衝を行う京都所司代の要職を与えられてこれをよく務めた。また、美濃国(岐阜県)に加納城(岐阜市)が築かれると、新たに美濃加納藩10万石の大名として入る。
この城は中山道の要衝で、万が一、豊臣秀頼ら大坂方が挙兵したならばこれを迎え撃つ拠点として新たに築かれた城であった。結局のところそのような局面が訪れることはないまま豊臣氏は大坂の陣で滅亡したものの、信昌が家康に信頼されていなければここに配されることはなかったであろう。

かくして、戦国乱世を次々と主替えをすることによって生き延びた奥平氏は、徳川将軍家の忠臣として江戸時代を迎えた。
約250年の歴史においてはたびたび転封を経験し、宗家は中津藩奥平家として幕末、明治維新を迎えた。この中津藩は好学の気風が強く、出身者に『解体新書』の翻訳に関わった前野良沢や、慶応義塾を創設した福沢諭吉がいる。

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