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【戦国時代の境界大名】松浦氏――海外との窓口ゆえに苦しむも……

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水軍で知られる北九州の武士団

九州は肥前国松浦地方(長崎県松浦市など)は複雑な海岸と多数の島によって構成され、また水深の深い良港を持つ地域であった。
この地に勢力を誇った松浦氏の出自については、いくつかの説が語られている。
例えば、平戸藩が編纂した『家世伝』は嵯峨源氏の子孫である源久という人物が下向し、土着したことを始まりとした。一方、数ある『平家物語』写本の一つ、長門本の記述から、前九年の役で敗れた安倍宗任が九州へ流されて松浦氏の先祖となった、とする説もある。
このどちらが正しいのか、あるいはほかに真実があるか、明らかにはなっていない。

どのような出自であるにせよ、松浦氏を中心とした武士団の松浦党は北九州に大きな勢力を持ち、中国や朝鮮との距離の近さから貿易商人兼海賊として力をつけていった。
源平合戦では平氏について壇ノ浦の戦いに兵を出したが、戦後は鎌倉幕府の御家人となる。
時が進むにつれて松浦一族のなかでは惣領・本家的な関係性が薄れていったようで、名乗りには居住地名を使うようになる。一族という意識はありつつも住む場所と血筋によって各個独立した存在となっていったようだ。

ただ、室町時代になると、彼らも積極的に「松浦」を名乗り、それどころか婚姻による血縁があったとはいえ周辺武家まで「松浦」を冠し、またこの時期の一族の特徴である一字名(諱が漢字一文字。源久の「久」など)を取り入れるようになる。どうもその背景には、源氏である足利将軍家との関係性を求める意図があったらしい。
このような意識を反映してか、南北朝期には松浦系の家々で一揆(国人による地域的結合)がたびたび形成され、団結によって動乱を乗り切った。しかし、動乱終結後にはふたたび独立割拠に戻っている。
また、この頃には松浦党自体が上・下に分かれるという動きもあった。

平戸松浦氏の台頭

さて、こうした小勢力による渾沌とした状況にあった松浦一族のなかから、次第に頭角を現すものが出現する。
彼らはもともと「峯氏」と呼ばれていたが、南北朝時代を通して力を伸ばしていく。根拠地が平戸(長崎県平戸市)であったことから、平戸松浦氏とも呼ぶ。

室町時代における平戸松浦氏の重要人物として、松浦義(生没年不詳)がいる。
この人物は1435年(永享7年)に官職を求めて上洛したが先祖の功績を問われて答えられなかったので、3年を京で過ごすことになった。そんななか、時の将軍・足利義教が石清水八幡宮(京都府八幡市)に参詣した際に、赤い烏帽子を被って道路警護に当たったところ将軍の目に留まり、以後大いに好意を持たれるようになって、義が求めていた肥前守の役職も与えられたという。
『家世伝』『大曲記』『壺陽録』などの江戸期の史料がこのできごとを記している。

義教自身もなかなかエキセントリックなところのある人物と伝わるので、義の個性的な振る舞いがよくかみ合ったのだろうか。平戸松浦氏は幕府から中国・明との勘合貿易の許可を得て、さらに力を得ていく。
そして室町幕府もすっかり力を失って戦国乱世に突入していた1541年(天文10年)、平戸松浦氏の戦国大名化における立役者である松浦隆信(1529―99)が現れる。「隆」の字は周防(山口県)の大名で北部九州にも影響力を持つ大内義隆から与えられたもの。「隆信」はのちの九州三強の一角、龍造寺隆信も同名だが、由来は同じだ。

さて、まだ15にも満たない隆信が家督を継承した際には一族の反対もあったというが、しかし長じて傑物であることを証明した。
朝鮮貿易では平戸松浦氏より優位に立っていたほかの松浦氏を圧迫・打破し、代々進めてきた諸家への支配強化を進展。ついにほかの松浦一族を従属させ戦国大名化を達成したのである。
加えて1563年(永禄6年)には佐世保・日宇・早岐・針尾島(ともに長崎県佐世保市)を奪い取り、1571年(元亀2年)には壱岐(同壱岐市)も支配下に治めて、北松浦郡と壱岐国というのちの平戸藩の所領が隆信の時代に形づくられたのである。

南蛮貿易とキリスト教がもたらした対立

また、天文19年(1550)には松浦氏にとってもう一つの転機があった。
これまでの貿易相手だった明や朝鮮に加わる第3の外国――ポルトガルの船が平戸に来航したのである。さらにこのことを知って、1年前に来日してキリスト教の布教活動を行っていたイエズス会宣教師フランシスコ=ザビエルも二度に渡って平戸を訪れた。
その2回目で隆信とザビエルが面会し、キリスト教布教の許可が下されている。

当初、隆信はザビエルやその後に平戸に残った修道士たちを厚遇した。彼らの後に西欧諸国から南蛮商人たちがやってきて貿易が活発化し、大きな富を生み出すだろうと考えていたからだ。
実際、天文22年に平戸へやってきた修道士ペトロ=ダルカセバは、隆信のことを「ポルトガル人のよき友」(『イエズス会士日本通信』)と語っている。

少なくとも南蛮貿易は隆信の望む通りに進んだ。ポルトガル船は次々と平戸へ来航し、富をもたらしたからだ。
「平戸は日本にある最良の港にして、当国に来るポルトガル人は、同港に向かうをつねとした」とは、『イエズス会士日本通信』に収録されたガスパル=ビレラ神父の言葉である。時に船が豊後(大分県)や薩摩(鹿児島県)へ向かうこともあったが、多くは平戸へ入っている。1561年(永禄4年)まで、平戸はポルトガル貿易の中心地であり、本邦と南蛮の境界の地だったといっていいだろう。

だが、境界には衝突が発生するものである。それが言葉も価値観も違うふたつの世界の境目であればなおさらだ。
1557年(弘治3年)、この地に駐在したビレラ神父は松浦氏の重臣を含む多くのキリスト教徒を獲得し、結果として領内の僧侶たちを刺激してしまった。しかも、彼らとの論争で勝ち、仏像や経典を焼いたというのだから、ただではすまない。僧侶たちが隆信のもとに押し掛ける事態にさえなった。

そこで隆信はビレラ神父を「後で呼び戻すから」といい含めて領外へ退出させたのだが、どこまで本気だったかは怪しいものだ。
結局、ポルトガル船の来航がストップしたため、「今のままなら平戸には来ない」と主張するポルトガル人たちの希望を入れた隆信が、ビレラ神父の前に平戸にいたバルテザル=ガゴ神父を呼び戻し、この時の騒動はいったん収まることになった。

だが、隆信のキリスト教に対する態度が硬化していったのは間違いない。
洗礼を受けた家臣に棄教を求めて逃げられる、という事件も起きている。もともとキリスト教そのものには興味がなく、貿易の利益だけを求めていたのが、家臣との対立まで起きてしまったため、次第に憎悪を持つようになったのだ。

ボルトガル貿易の終焉

1561年(永禄4年)には、さらに大きな事件が起きる。日本人とポルトガル人が綿布の取引を巡って争い、そこにカピタン・モール(ポルトガル船隊の司令官)や隆信の家臣までが絡み、ついには日本人たちがカピタン・モールらを殺してしまったのである。これを「宮の前騒動」と呼ぶ。

犯人を処罰しないなど、その後の隆信の対応はポルトガル人を満足させるものではなかったため、両者の関係はすっかり冷え込み、平戸貿易も一気に低調化。
騒動の翌年には平戸へのポルトガル船の寄港が避けられ、貿易の主導権は、良港・横瀬浦(長崎県西海市)を領する肥前の大名でのちにキリスト教にも入信する大村純忠へと移った。

隆信はキリスト教徒は憎かったが、貿易の旨味は惜しかったようだ。永禄7年には改めて平戸に教会が建設され、幾人かの神父と修道士も滞在するようになっている。
だが、キリスト教側は隆信への不信感を強く持っていた。「デウスの教え、ならびにキリスト教の大敵」(『イエズス会士日本通信』)と見ていたのである。そのため、永禄5年にポルトガル船が平戸へ入ろうとしたとき、豊後にいたコスメ=デ=トルレス神父が隆信の悪評を知らせ、大村領の福田浦(長崎市)へ回らせるということが起きた。

これに激怒した隆信は水軍を率いて福田浦を攻め、ポルトガル船を襲ったが、やはり船が違う。さんざんに敗けてしまった。
この事件によって、少なくとも隆信の時代には平戸での南蛮貿易の見込みはなくなったのである。

豊臣大名、そして近世大名ヘ

南蛮貿易をめぐる対立だけでなく、隆信とその跡を継いだ嫡男・鎮信(1549―1614)の時代にはたびたび大村氏、そしてその背後にいる有馬氏と争うことになった。
ただ決着がつかなかったのか、1586年(天正14年)に大村氏との間に領域協定を結んでいる。

また、鎮信の頃には肥前佐賀の龍造寺隆信が急速に勢力を拡大し、松浦氏も天正13年にはその支配下に入っていた。
隆信の頃には戦国大名化を果たしていたとはいえ、その勢力は決して大きなものではなく、大大名相手にはかなわない程度の力でしかなかったのだ。のちに龍造寺氏が没落するとその軛から逃れ、また独自の活動を行っている。

そして九州に未曾有の大軍がやってくる。天正14年から始まった豊臣秀吉による九州攻めだ。隆信と鎮信は揃って秀吉に頭を下げ、その支配下に入って豊臣軍に加わることで、旧領を安堵された。
豊臣政権下では、ほかの九州諸将とともに文禄・慶長の役で朝鮮へ出陣する。秀吉死後の覇権を決した「関ヶ原の戦い」では鎮信が中立を保ち、その嫡男の久信(1571―1602)が反徳川の西軍についた。
このような経緯があったにもかかわらず徳川家康から咎めを受けることはなく、肥前の松浦・彼杵両郡に壱岐を合わせた6万3200石(のち6万1千石)をそのまま安堵され、平戸藩として江戸時代へ入っていった。

その後の松浦氏

最後に、松浦氏と海外貿易のかかわりについて紹介しよう。
隆信の暴挙によって衰退してしまった平戸での南蛮貿易だが、その子・鎮信も父譲りでキリスト教を嫌悪しながらも貿易の旨味は欲しがっていたようで、1584年(天正12年)にポルトガル船が来航するとこれを歓迎し、入信を口にして貿易の可能性を探っている。
だが、この話は発展しなかったようだ。むしろ、天正15年に豊臣秀吉が伴天連追放令を出してキリスト教弾圧の方針を打ち出したことから、数年後より自らもキリスト教弾圧を行うようになる。

ところが、機会は思わぬ方向からやってきた。
1600年(慶長5年)にオランダ船が豊後に漂着した際、鎮信は船をわざわざ建造させて東南アジアのマラッカヘ送り、オランダ船が平戸へ入るように招いた。これが成功し、オランダとイギリスが平戸に商館を設けて日本での拠点とするようになり、平戸はふたたび貿易港として大いに繁栄することになったのだ。

だが、この繁栄もまた、長くは続かなかった。まずオランダとの対立や貿易の失敗から、イギリス商館が1623年(元和9年)に閉鎖、撤退している。残ったオランダ商館と平戸藩の関係も良好ではなかったことが一因になったか、1641年(寛永18年)には閉鎖している。
オランダ商館の移転先は2年前にポルトガル人が追放されていた長崎の出島で、以後200年あまりに渡ってオランダ人の居住区となる。こうして、異国との境界としての平戸、そして松浦氏の歴史は終わったのである。

もう少しだけ、その後の松浦氏にも触れよう。
代々の当主のなかには、『甲子夜話』を著して江戸時代研究の大きな参考になっている松浦静山(清)がいる。
幕末期には、隣接する長崎に外国船が侵入する事件もあったため、その防衛に奔走することになった。また、当初は公武合体を推進したが、やがて倒幕へ傾き、戊辰戦争でも新政府軍側に与している。

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